映画ソムリエを目指す猫

〇〇なときに観たい映画をレビューしており候。

『阪急電車 片道15分の奇跡』 ささやかでも世の中捨てたもんじゃないと思いたい時に観たい映画

『阪急電車 片道15分の奇跡』

公開:2011年4月29日(日本)

上映時間:120分

監督:三宅喜重

脚本:岡田惠和

原作:有川浩

音楽:吉俣良

撮影:池田英孝

編集:普嶋信一

出演:中谷美紀、戸田恵梨香、南果歩、谷村美月、勝地涼、有村架純、玉山鉄二、高須瑠香、芦田愛菜、宮本信子、他

 

【あらすじ】

片道15分の阪急電車に、ある日ウェディングドレスを着た女性が乗車していた。不思議がる周囲。おばあさんに連れられていた女の子は「お嫁さんだ」というが… 大人たちは察しがつく、そうでないことを… 阪急電車を利用する乗客たちが織りなすハートフルな群像劇。

 

レビュー目次

 

 

良識を一時的に捨てた復讐の白ドレス

結婚の準備もしていた恋人が別の女、しかも会社の後輩を妊娠させてそっちと結婚するから別れてくれと言ってくる… 

これくらいなら世の中でも聞かない話ではないが、後悔させるため披露宴に呼ばせてウェデイングドレス姿で出席するというのはなかなかない。

普通、良識というものが勝ってできないものだ。

だが、結婚の準備までしていた相手がいながら別の女(後輩)を孕ませた相手の男、ならびに計算ずくで生でヤッたその後輩こそが良識のないことをやってくれたのだから、一時的に良識を忘れて奇行に出てしまうこともまあしようがないことだろう。

そしてそんな奇行になんの意味もなく、自分が惨めになるだけだと承知して、果ては涙するのだから、その女性もまたちゃんと良識のある大人である。

 

良識と向き合う

この群像劇に登場する人物たちの多くは、それぞれで「良識」と向き合っている。

恋人のDVや身勝手さにも必死に合わせようとする女性も、家族に後ろめたさを感じながらも常識のないご近所さんたちと付き合っている主婦も、世間からはズレているかもしれない軍オタの大学生も野草に反応してしまう田舎育ちの女学生も、バカだけど誰よりも良識のある恋人を持つ受験生も、虐めにあっている小学生の女の子も、非常識を見逃せないおばあさんも、だ。

自分の生活ややっていることは正しいのか、間違っていないのか? 良識からズレていると思いながら何故抜け出せないのか… 大小関わらずそれぞれに悩みがあって、それぞれで苦しんでいるが、そう悩むのはやはり良識というものが備わっているからだろう。

この「良識」という観点で見てみると、登場人物たちはみなさんちゃんと良識を持っている。それを持っているからこそ、電車内で見かけただけの赤の他人に優しくなれるのだ。

 

世の中捨てたもんじゃない

たしかに、世の中、良識のないこと、非常識なことが溢れているものだろう。

それでも、赤の他人に優しくなれる人たち、また非常識を注意できる人がいることを知れれば、作中の台詞にあるように「世の中捨てたもんじゃない」と思えるものだ。

そして、その舞台であった電車(阪急電車)の中(駅も含む)というのは、公共の場として良識を守ろうとする空間なのであるのだろう。

現実に電車を利用する人たちも常日頃から良識を持ってそれに逃げずに向き合いながら生活をしていると、たとえ嫌なことがあっても作中のようなささやかながらも励みになる出会いを経験するのではないだろうか。

そう、この映画が言っているようにこの猫の目には思えた。

まあ、私はネコだし、近くに電車もない田舎に住んでいて電車のことはよくわからないので、バスに当てはめての感想であるがね。

いや、公共の場どこにでも当てはまる話なのだろう。

あしからず。

 

【参考動画】


阪急電車 片道15分の奇跡

『ピクセル』 ゲームばかりしていた自分に不安を感じた時に観たい映画

『ピクセル』

公開:2015年7月24日(アメリカ)

上映時間:105分

監督:クリス・コロンバス

脚本:ティム・ハーリヒー、ティモシー・ダウリング

原作:パトリック・ジャン(2010年短編映画『ピクセル』)

製作:アダム・サンドラー、クリス・コロンバス、アレン・コヴァート、マーク・ラドクリフ

音楽:ヘンリー・ジャックマン

撮影:アミール・モクリ

編集:ヒューズ・ウィンボーン

出演:アダム・サンドラー、ケヴィン・ジェームズ、ミシェル・モナハン、ピーター・ディンクレイジ、ジョシュ・ギャッド、マット・リンツ、他

 

【あらすじ】

1982年に開かれたビデオゲーム大会の模様をビデオに撮り、NASAが宇宙人との友好目的で宇宙に打ち上げたところ、それを見た宇宙人が自分たちの星を侵略する宣戦布告と受け止めてしまい、地球に戦争を挑んでくることに。しかも世界を侵略せんばかりの規模ながら当時のゲームそのままのビジュアルとルールで。対抗するため82年のビデオゲーム大会で準優勝したサムが幼馴染で現・アメリカ大統領のウィルに呼ばれるのであった…

 

レビュー目次

 

 

 

80年代にいっぱいゲームセンターへ行っていた大人へ

日本で任天堂からファミリーコンピュータ(ファミコン)が登場したのは83年。その数年前からビデオゲームとしてパックマンやインベーダーゲームなんてものも登場し流行っていたので、80年代に中学生、または小学生だった人たちからすれば作中に登場するゲームは懐かしいタイトルばかりだろう。

誰が作ったんだろう?なんて思うのは野暮というもので、同じように80年代に中学生、または小学生をしていて、勉強なんかせずにゲームセンターに入り浸っていたような大人(現在はオッサン)が作ったんです。

もう最近のゲームはグラフィックが綺麗すぎて、ゲームが複雑すぎて、スマホゲームでは二次元美少女ばかりで…そういったものに辟易としたり、ついていけなくなっていた人たちに、80年代のビデオゲームって面白かったんだよと思い出させてくれるような映画だ。

あの頃、何の役にも立たないのにゲームばかりしていた人たち、作中では「オタク」の「負け組」が世界を救うのだから、同じような「オタク」だった現・大人たちを励ましてくれるような映画でもある。

また同時に、現代っ子にレトロゲームの楽しさを伝える映画でもあろう。

 

ゲームなんて何の役にも立たないというのは過去の話

本作は子供の頃にゲームばかりしていた負け組の「オタク」が昔とった杵柄ことゲームの技術を活かして世界を救う人生逆転のドラマとなっている。また作中、「古いゲームが得意な負け犬だ。無駄な少年時代が役に立ったな」というセリフがあるように子供の頃にゲームをばかりしていても基本的に世の中にも将来にも何の役にも立たないものだと世間では思われていたのだろう。いや、大人世代ではいまもそう思っている人が多いかもしれない。

ところが現代に目を向けると、世界を救出するなんて物語みたいなことはないにしても、プロゲーマーなる職業が登場してeスポーツなるジャンルも確立され、ゲームをすることで人によってはプロスポーツ選手のように年間何千万(億単位に行く人もいるらしい)と稼ぐというのだから、子供の頃にゲームに夢中になることが「無駄な幼少期」とはならなくなっている。

この映画はそのあたりの未来を示唆しているようでもあり、ゲームをバカにできないことを世の中の特に大人たちに向けて訴えているのではないかと思えてならない。

 

クラシックアーケードゲームもいつかはeスポーツに?

この映画は、いわゆるクラシックアーケードゲームやレトロゲームと呼ばれるむかしのゲームを最新のCG技術や映像技術を使って近未来的に演出している。プレイする様子もまるで体感ゲームのように進化させている。

これらを見ると、いわゆるクラシックアーケードゲームやレトロゲームなんてものも今の技術によってeスポーツとして楽しめるゲームに進化させることが出来るのではないか、はたまたクラシックアーケードゲームやレトロゲームのeスポーツ化を促しているのではないかと、そんな風にも思えてくる。ゲームばかりをしていても無駄ではないという希望を、現代の子供たちだけではなく、大人(オッサン)にも持たせようとしているようにも思えてくるのだ。

 

世の中、ロボットやAIの登場によって単純労働がなくなり、人間たちは文化的活動に労力を使う時代になるかもしれないそうだけど、いわゆる「オタク」たちが陽の目を見る時代がこの映画のように訪れるのではないかとそんな予感までした。

人間も、そのうち我々ネコのようにのんびりとくだらないことに時間を使って生きていく生き物になるのではなかろうか。この映画を観ながら、そんな未来まで思い馳せた。

あしからず。

 

【参考動画】

 


映画『ピクセル』予告編 2015年9月12日(土)公開

『あまくない砂糖の話』 砂糖を知ってダイエットしたい時に観たい映画

『あまくない砂糖の話』

公開:2015年2月(オーストラリア)

上映時間:102分

監督:デイモン・ガモー

脚本:デイモン・ガモー

製作:ニック・バジアス

撮影:ジュード・オーバートン

出演:デイモン・ガモー、スティーブン・フライ、イザベル・ルーカス、ブレントン・スウェイツ、ジェシカ・マーレイ、他

 

【あらすじ】

人間、砂糖ばかりを60日間食べているとどうなるか?人間は平均一日スプーン40杯もの砂糖を摂取していると知ったガモーは、60日間にわたって一日スプーン40杯分もの砂糖を摂取する実験を自分の肉体で開始。健康体だったカラダは日に日に…

 

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ドキュメンタリー映画なので

ドキュメンタリー映画であって創作の物語ではないので、作品の趣旨も作り手の狙いも実験した結果もはっきりしており、勝手に解釈する余地なんてあまりないものの、「身近な食品」を題材にしているだけに、紹介したくなった映画だ。

やりたいことはハッキリとしている。

監督が自分の体を使って実験していることは砂糖を多く摂取し続けると人間の体はどうなるかということだ。

脂肪を摂りすぎると肥満になって健康に良くないと言われているが、砂糖は問題ないのか、その疑問に自分の体で答えようとしているのだ。

 

監督が試しているもの

世の中の人々が日頃から食べている加工食品と言うものの中には砂糖がふんだんに使われており、それらを食べている人間は一日平均スプーン40杯分の砂糖を摂取していると言われている。しかも加工食品というのは、シリアルだとかスムージーだとか健康食品と言われているものも含む。

もし砂糖に脂肪のような健康被害がないのであれば、いわゆる健康食品と言われる加工食品を60日間食べ続けても平気でいられはずだろう。

監督のガモーはこのことを試しているのだ。ある意味、健康食品を作っているメーカーにケンカを売っているような挑発的で野心のある取り組みだ。

なお、1日に食べる量はスプーン40杯分の砂糖を目安とするので、計算してみると一日に食べる量はそんなに多くはない。

食べる量が多くはないというのは、裏を返すといわゆる健康食品の中にはそれだけ多くの砂糖が使われているという意味でもある。

 

実験の結果

暴飲暴食するわけでもなく、カロリー量で見ても実験前と大差がない。ついでに実験期間中にガモーは適度な運動もしていた。これらだけを見ると太る要素がまったくない。

しかしだ、それにもかかわらず、実験を続けることで彼は太っていった。

健康食品であるはずなのに、食べた量も多くないはずなのに、彼のお腹は妊娠している恋人と同じくらい膨らんでいったのだ。

他にも肝臓が悪くなったり、精神面では躁鬱を繰り返したりと、体重以外でも変化が出てくる。それも悪い方にだ。

実験には医師たちも協力しているので、その悪くなっていくメカニズムも作中にて解説してくれている。

それらを見ていると、砂糖という身近な食べ物についてとても勉強になると同時に、とても怖ろしく思えてくる。

ほかにも、サイダーを赤ん坊の頃から飲ませた結果18歳で総入れ歯となった高校生への取材や、糖尿病が増えたアボリジニーの話、そして中毒性があることも述べられており、これらを併せると、その怖さはまるでホラーに近かかった。

 

極端だが価値ある実験

実験の結果を総合すると、加工食品にも大量に含まれる砂糖は人体に弊害がある。このように言っているようなものだ。

おまけに加工食品会社は金儲けばかりしているともいうのだから、フード業界の人間が見ればかなりケンカを売っていると思われるだろう。

ガモーのやっていることは少し極端だ。脂肪分やタンパク質に注目して同じような実験をするとどうなるのかも検証しないといけないだろう。サンプルも一人だし、この実験結果から砂糖のすべてを否定することもできない。

ただ、いち消費者としては彼の実験と結果は知っておくべき事実であろう。作中(18歳で総入れ歯のとき)、歯医者よりも教育が必要だというセリフがあるように、全部抜いてしまう処置をしてくれる医者よりも、そんな危うい状態に至らないための知識のほうが価値があるというものだろう。考えてみても、無駄な食べ物を摂取する必要もない、それによって歯医者に通う必要もない、歯をすべて失う必要もない、ないないづくしで無駄なお金を使う必要もないのだ。

ところが怖ろしいのは、ビジネスの目線で言うとなにもしない幸せというものほど邪魔なものはなくて、健康被害があろうが消費し続けてくれないと困る以上はそう仕向ける点だ。メーカーからすると、歯医者も巻き込んで商売にしている可能性だってある。つまりは歯がボロボロになるくらいサイダーを消費させて、ボロボロになったら歯医者を寄こして歯医者を儲けさせる。道徳なんて無視して消費者の肉体を蝕みながらマネーに変えるサイクルを作っていると、こう邪推できるわけだ。

そういった推測も含め、この映画は作品すべてで知識を与えてくれている。

その「知識」にはすごく価値があろう。

 

もっとも、その知識を持って、何を食べるか選ぶのはそいつの勝手だ。この猫の目から見れば、それでも人間は甘いものを食べるだろうし、砂糖の摂取をやめることも、加工食品を明日からすべてやめるということもしないだろう。

こういったドキュメンタリーを見るたびに、人間の欲の深さや、はたまた人間たちの心に隠れた破滅願望を測れる気がして、面白い。

 

ダイエットしたい人には

砂糖ならびにそれを大量に使用するフード業界の危うさも知れたり、ホラーのような怖さがあるなんてことも言ったが、いま現在ダイエットをしようと考えている人からすると、この映画はある意味興味深いであろう。見方を変えると、ダイエットに使えそうなヒントが隠されている映画でもあるのだ。

糖分の摂取で太ってしまうのなら、日頃より糖分をなくせば痩せれるんじゃないか。

そう解釈もできるだろう。

糖分をカットしたダイエットをやるのもやらないもその人の自由であって、結果の責任もその人が負うものだろうが、砂糖と同じく、映画も使いようだということだ。

あしからず。

 

【参考動画】


『あまくない砂糖の話』予告

 

『思い出のマーニー』 反抗期の心をほぐすヒントを得たい時に観たい映画

『思い出のマーニー』

公開:2014年7月19日(日本)

上映時間:103分

監督:米林宏昌

原作:ジョーン・G・ロビンソン

脚本:丹羽圭子、安藤雅司、米林宏昌

音楽:村松崇継

出演:高月彩良、有村架純、寺島進、根岸季衣、松嶋菜々子、黒木瞳、森山良子、吉行和子、他

 

【あらすじ】

両親と祖父母を早くに失い、佐々木頼子の里子として育てられていた杏奈であるが、ある時から感情を表に出さなくなっていた。持病の喘息のこともあり、頼子は杏奈を札幌から海辺の田舎町に住む親戚の大岩夫婦の家へ夏休みの間だけ預けることにする。その町にて沼の側の洋館を目にした杏奈は夢の中でマーニーという少女と出会うのだった…

 

レビュー目次

 

 

普通を求める少女

私は貰いっ子で、実の両親は早くに死んでいて、義母は私を育てるために自治体から補助金を貰っているようだから、私は誰からも本当に愛されていない一人ぼっちの存在なんだ、だから義母のことも「おばちゃん」なんて呼んで距離を置いて傷つけてしまっています…。ちなみに私は中学一年生です…。

主人公・杏奈の心の中を俯瞰してみるとこういった設定だと思われるが、こういうのもいわゆる中二病というのだろうか?

そのあたり家猫である私にはよくわからんが、反抗期なんだろうなということはよくわかる。

どんな子供にもこの頃になると大小にかかわらず反抗期なんてものはあるもので、それが暴力に出てしまうか、暴言に出てしまうか、はたまた被害妄想をすることで親との距離を心の中で作ってしまうか、そのアクションも色々だ。

彼女の場合、実際に両親も死んでいて貰いっ子という少し特殊な生い立ちもあるものの、あの心配症の義母を見ると自分が誰からも愛されていないと思うのはやはり被害妄想だろう。そしてそのアクションは反抗期の少女にとっては普通のことであろう。他人の家の芝は青く見えるものだし、人間の幸不幸なんてその人になってみないとわからないものなのだから、自分が不幸だと思っていても、傍から見るとそんなに不幸にも見えなかったりもする。マーニーが彼女のことを羨ましがったように、だ。

杏奈自身が七夕まつりで短冊に書いた「普通に過ごせますように」も、実はもうすでに「普通」に過ごしているのに、そう思いたくないだけなのではないかと思えてならない。普通ではないと思っていられれば、生活の中で見つける些細な嫌なことにも私は普通ではないのだからと言い訳ができるものだ。

 

自問自答

そして杏奈自身は基本的にいい子だから、本当はそんなこともすべてわかっているのだろう。

マーニーと会話をしたり、一緒に船に乗ったり、古く誰にも使われていないはずの洋館でパーティが行われていたり、そのパーティに呼ばれたり、一緒に踊ったりと、質感のある描写が続いたと思ったら、それらがすべて夢幻と消えて道端などで寝そべっているアンナのシーンへと移ってしまう白昼夢のような演出から、マーニーとは杏奈が頭のなかで作った空想の友だちであることがわかる。そんな自分の頭の中だけに存在するマーニーと会話して彼女に慰めてもらうということは、それはつまり杏奈の心のなかでの自問自答だからだ。

里親の愛情についてもマーニーに慰めてもらっている杏奈は、結局それについても本当はちゃんと愛してくれていると自分でわかっているわけだ。

 

わかっているけど認められない反抗期の心をほぐすには

わかっていることなのに認められない、そして距離を広げようとするこの反抗期の心の矛盾。

そういった矛盾の心を解きほぐすにはどうすればよいのか、その方法を研究するという視点で見ると、この『思い出のマーニー』は興味深い。

本作を最後まで見るとマーニーとは「幼い時に語ってもらった思い出が作った幻影」であったようなのだが、まだ小さいときにあのように保護者が自身の「思い出」を語って聞かせておくと、まるで刷り込みのように、思春期を迎えてアイデンティティを形成する際の一つの種になりうるのではなかろうか。そしてそれを思い出させることで一気に思い出させることで自我の形成を促し、反抗期の心もほぐれるのではないだろうか。

例えば作中のように、その語った思い出が悲しくも優しい物語であったなら愛情を持って悲しい出来事も乗り越えられる強い心を形成してやることができ、果ては反抗していた相手とも向き合ってくれるのではないかと期待してしまうのだ。

もちろん、その思い出を語る上での大前提は愛情だ。邪心やいたずら心で絶望感しかない怖ろしい話ばかりを刷り込めば世の中を悲観ばかりする心が出来上がろうし、他人を傷つけてもOKなんて横暴なことを刷り込めば人情も何もない心が出来上がるだろう。また、恐ろしい話でも『鬼太郎』を描いた漫画家・水木しげる氏が幼い頃に聞かされた妖怪話のように自戒や社会倫理を教えるためにするのであれば、それはそれで愛情のあるお話となるのだろう。

なお、ずっと長く言い聞かせすぎても、その言い聞かせたことに反抗してしまう可能性もあるので、聞かせ続ける時期のリミットは見定めなくてはならないだろうが、愛情を持った思い出なりお話は、たとえ一時的に反抗されても、思い出せばそれが愛情だったといつかは気づいてもらえるものだろう。

まあ、杏奈のようにマーニーのことを思い出せたこと自体が奇跡であって、思い出してもらえなければ杏奈の母親のようにグレてしまう場合もあろうことだから、口酸っぱく日頃から優しさや愛情を説いている方が良いのかもしれない。

義母の心配性は面倒かもしれないが、彼女がずっと杏奈に愛情を掛け続けていることは決して間違いではないし、それがあるからこそ杏奈がマーニーのことを思い出す奇跡というか運を引き寄せたとも言えるだろう。

 

どうだろうか、この解釈。毎日退屈な家猫の私も基本的にはやさしい奴なのではないかと思えてくるほど優しい解釈ではなかろうか。

それもこれも、私を飼っている優しい主のおかげだろう…認めたくないけど。

あしからず。

 

【参考動画】


思い出のマーニー 予告

『霊幻道士』 怖いもの見たさをライトに叶えたい時に観たい映画

『霊幻道士』

公開:1985年11月7日(香港)

上映時間:96分

監督:リッキー・ラウ

脚本:シートゥ・チャホン

製作:サモ・ハン・キンポー

 

出演:ラム・チェンイン、リッキー・ホイ、チン・シュウホウ、ムーン・リー、ポーリン・ウォン、他

 

【あらすじ】

ある日、富豪ヤンから先代の改葬を依頼された道士カオがその墓を掘り起こしてみると呪いがかかるように埋葬されていた。20年前に埋葬したのに腐敗していないその遺体を見て、キョンシー化が進んでいることを悟ると、対処するためカオは自分の義荘に持ち帰るのだが、結局凶悪なキョンシーが一体誕生してしまうのだった…

 

レビュー目次

 

いわゆるサモハン・ホラー

ジャッキー・チェンやユン・ピョウたちと香港映画の一時代を築いたサモ・ハン・キンポーは、アクション映画の俳優としてよくその姿を見かけたが、同時に監督、製作としても活躍していた。その中にはホラーも作っており、『妖術秘伝・鬼打鬼』を始めとするそれらはいわゆる「サモハン・ホラー」と呼ばれていた。『鬼打鬼』とそれに続く『霊幻師弟 人嚇人』『霊幻百鬼 人嚇鬼』はサモハン・ホラー3部作とも呼ばれ、この『霊幻道士』(原題は『殭屍先生』)もその4部作目に数えられている。ただ、のちにキョンシーブームなんてものまで誕生したくらい『霊幻道士』そのものがヒットしすぎてしまって、そのまま霊幻道士シリーズを確立してしまっている。

シリーズの人気が一時相当高かったせいでその背景を知らず観ていたい人も多く、『霊幻道士』はそもそもサモ・ハンによって作られたということを知らない人も多かったりする。私を飼う主もその一人だった。

 

アクションホラーコメディというジャンル

キョンシーブームの始まりでもある同作。

子供の頃にこの映画を観たという私の主は、当時、襲ってくるキョンシーが怖かったそうだ。噛まれたり爪で突き刺されたりすると自分もキョンシーにされてしまうなんて設定もあるのだから、小学生からすればそりゃビビるだろう。

ところがだ、この映画はホラーであるもののアクションホラーコメディだ。アクションホラーと言うのはわかるが、そのうえにコメディまで付いてくる作品だ。

ホラーとコメディってなんか矛盾してないって思うかもしれないが、そんな矛盾をワンパッケージにしてしまっている力作なのである。

これは『鬼打鬼』ときからずっと続いているジャンルで、サモハン・ホラーの真髄とも言える。

大人になってこの『霊幻道士』を観ると、どうやら子供の頃には気づかなかったコメディ要素に気づいてしまうようで、怖いという感情よりも笑ってしまっていた時間のほうが長かったそうだ。怖いようでやりとりがコントのようだし、むしろホラーであることを忘れてしまっていたという。

いや、それはすごくわかる。

この猫の目からしてもこの映画はホラーではなくコメディだ。

登場人物たちが真面目に怖がっているからホラーのように見えても、怖がりすぎてその動きが結果として滑稽に見えるのだ。

最後にキョンシーが大暴れしていても、その暴れっぷりまで笑えてくる。

むちゃくちゃ敵が強いのに、アクションが次々と展開しておまけにカッコよく、そしてそんな中にもコメディ要素を盛り込んでくれるので、『アラレちゃん』のようにどんだけ痛めつけられても登場人物(主要人物たち)が死ぬことはないであろうギャグマンガのような安心感まであるのだ。

 

「怖いもの見たさ」をライトに叶える時に

 

人間というのは不思議なもので「怖いもの見たさ」というおかしな心理もあるようだ。

ホラー映画なんてジャンルがあるのも、それを満たすためであろう。ただ、怖すぎてもダメだという人も少なくない。

怖いのは嫌だけど、でも怖いもの見たさもちょっと試したいという矛盾にも似た感情を抱く方には、このホラーとコメディという矛盾したような要素を見事にかけ合わせたエンターテイメント作『霊幻道士』が打ってつけであろう。

この映画は、ホラーでありながらコメディ要素をとても見つけやすいのでホラーとしてはかなりライトなのだ。

ライトに「怖いもの見たさ」を満たしてくれ、そして気がつけば笑っていられるのだから、心のデトックスも半端ない。

 

ライトなのにすっきり感も強いって、なんと費用対効果(この場合の「費用」は心の「負担」)の高い作品だろうか。

ステキだ。

 

【参考動画】


映画予告編 「霊幻道士」

『最愛の子』 親の子への純粋な愛情が国の制度によって発揮できないときに観たい映画

『最愛の子』

公開:2014年9月26日(中国)

上映時間:128分

監督:ピーター・チャン

脚本:チャン・ジー

音楽:レオン・コー

出演:ヴィッキー・チャオ、ホアン・ボー、ハオ・レイ、トン・ダーウェイ、チャン・イー、他

 

【あらすじ】

離婚後、小さなネットカフェを営みながら男手一つで3歳の息子を育てるティエンであったが、ある日その息子が誘拐されてしまう。別れた元妻(現在別の男と結婚している)とともに必死に探し、三年後見つけることになるものの、息子に自分たちの記憶はなく、彼を育てていた女を母親と慕っていたのだった…

 

レビュー目次

 

まず知っておきたい中国の社会背景

この映画は2008年に子供が誘拐され、その3年後の2011年に発見されて実の親のもとに戻ってきたという実際に起きた事件を基にして作られている。(ドキュメンタリーではないので登場人物たちの設定などは多少異なる)

史実が元になっているので、中国という国の当時の社会背景をわかっていないと日本人には理解しづらい点もある。

まず、知っておかなければならないのは、中国は1979年頃から2015年まで一人っ子政策をとっていた点である。

そのせいで跡取り息子欲しさに誘拐事件や人身売買が頻繁に起きていた。子供の誘拐の件数は年間20万人とも言われていた(中国政府の公式発表では1万人)。当時の中国には人身売買に対する厳しい罰則もなかった。

さらに、本作でも描かれているように、事件当時は子供が行方不明になっても、不明になって24時間経たなければ警察が動いてくれないという規則もあった。誘拐された子供はバイヤーの手に次々と渡って遠くに運ばれていくため、24時間後に捜索を始めても間に合わないのである。

 

子供が行方不明なうえにそこに付け込まれて詐欺にも狙われる不幸 

本編では、子供が行方不明になってから父親のティエンが懸命に全国を探している。ネットを介して情報を集め、あちこち飛び回っていた。ただ、懸賞金目的の詐欺も多く、他人の不幸に乗じて金銭を巻き上げようとする集団にも遭遇している。逆に、子供を養育できなくなった親が息子に行方不明の子供を演じさせて引き取らせようとする場面もあった。

いまではGDP世界第二位の中国でもその内情を見ると貧富の差が激しい。農村部と都市部では戸籍も異なり、農村部から出稼ぎに来て懸命に働いても都市部の戸籍を取ることはできない。

日本のオレオレ詐欺は低所得者が高所得者の年寄りからお金を巻き上げる、貧富の差の復讐と揶揄されるように、格差が広がるとこういった犯罪が増えるものだ。

ティエンは詐欺集団に襲われた時「なんて奴らだ」と言うが、この不幸は社会構造が引き起こしている面もあるだろう。

 

一人っ子政策がもたらす苦悩

社会構造以外にも、一人っ子政策そのものが子供を誘拐された親たちを苦しめてもいる。

本作では行方不明の子供を持つ親たちのコミュニティがあり、そのリーダー的存在のハンは結局子供を新たに作ることを決断している。結果、妻も妊娠している。

日本人の感覚からするとそれに何の問題があるかと思われるが、中国政府が一人っ子政策をとっているため、最初の子供の死亡を証明しないと次の子供を「合法」で産めないのである。

6年間ずっと探し続けている行方不明の子供を「死亡」として扱わなければならないのだ。それは行方不明になった子供を探すことを諦めることを意味する。

規則だから仕方ないとはいえ、国民の幸福に寄り添えない規則や政策など一体何のためにあるのかと考えさせられる。

 

社会構造の中で交錯する母親たちの愛情

ティエンの行方不明の息子(ポンポン)が3年ぶりに農村で発見されると、育てていたリー・ホンチンという女も物語の柱となってくる。

実の親たちはホンチンの元で育てられていた自分たちの息子を見つけるとその場からすぐに連れ帰ろうとするが、誘拐された時3歳児だった息子は実の親のことを覚えておらず、育ての親であるホンチンを母ちゃんと慕っていた。おかげで連れ帰ろうとする実の親たちがまるで誘拐しているような構図になってしまっている。

DNA鑑定で血のつながりがあることが判明しても、実の親たちこそを誘拐犯だと思っているポンポンはティエンたちになかなか懐いてくれない。実の親としては辛いところだ。

ホンチンとしても誘拐されてきた子供だとは知らなかったのだから、また死んだ亭主には自分は子供を産めない体だと言われていたのだから、引き離されてしまう子への愛情も本物だろう。見ていて同情してしまうものだ。

また、ホンチンには娘(ポンポンからすると一緒に育ってきた妹)もいて、その子も実子ではなく、事件を機に施設に保護されることになると、彼女はその妹だけでも自分の手で育てようとポンポンや娘がいる深圳(農村部からすると都会)へとやって来る。

ポンポンとの絆を深めるためその妹を養子にしたい実の母親と、その娘だけでも自分で育てようと同じく養子にしたいホンチン…。我が子を思う二人の「母親の愛情」が交錯してしまうのだから、見ていても切ない。もはや両者が主役で、両方に感情移入をしてしまう。どっちが悪いなんて言えないのである。

 

結末と制度

物語は最後、国の制度上、両方ともに妹を養子にできる可能性がなくなると示唆するような終わり方をしている。

どっちが悪いなんて言えないのにそのような結末に至るのは、結局その制度や社会構造に問題があるということであろう。

この映画は親が子を思う至上の愛情を描きながら、同時に中国政府、ならびに中国の国民に問題提起をしている作品である。

そしてその後、子供や女性の人身売買を厳しく取り締まる法改定が政府によって実際になされ、また一人っ子政策も緩和されていったのだから、映画が世の中をも動かし得る可能性があることを教えてくれる作品でもあった。

純粋な愛情すら発揮できない国であるなら国民が政府に訴えなくてはいけないのだろう。これは中国に限った話でもない。

 

ちなみに私のような家猫は売られていまの主の家に住んでいる身分だから、どちらかというポンポンの立場と似ている。猫身売買だ。そんな私が言えることは、馴染んでしまうとそれが普通になる。育ての親を母ちゃんと呼ぶポンポンの気持ちはよくわかる。そのせいで二人の母親が苦しむことになっても彼のことは誰も責めれないだろうと言っておきたい。

あしからず。

 

【参考動画】


映画『最愛の子』予告編

『白鯨との戦い』 海やクジラをナメてはいけないと教える時に観せたい映画

『白鯨との戦い』

公開:2015年12月11日(アメリカ)

上映時間:121分

監督:ロン・ハワード

脚本:チャールズ・リーヴィット

制作:ジョー・ロス、ポーラ・ワインスタイン、ウィル・ウォード、ブライアン・グレイザー、他

音楽:ロケ・バニョス

撮影:アンソニー・ドッド・マントル

編集:マイク・ヒル、ダン・ハンリー

出演:クリス・ヘムズワース、ベンジャミン・ウォーカー、キリアン・マーフィー、ベン・ウィショー、トム・ホランド、ブレンダン・グリーソン

 

【あらすじ】

19世紀半ば、作家・ハーマン・メルヴィルは、かつて巨大な白鯨によって沈められたエセックス号の乗組員の生き残りであるトーマスという男を訪ねた。当時の話を誰にもしたくなかったトーマスであったが、その口を開くと想像を絶するクジラとの死闘と漂流生活の様子が語られるのであった…

 

レビュー目次

 

 

当時の捕鯨の仕方がわかる

『白鯨』という小説を書いた作家・ハーマン・メルヴィルは実際にあったエセックス号の沈没を元に『白鯨』を書いたと言われている。巨大なクジラと戦う創作ではなく、そのエセックス号の乗組員たちがかつて現実にどのように巨大クジラに襲われ、どのようにしてサバイバルをくぐり抜けて生還したか、そこにスポットを当てているのが本映画だ。

小説『白鯨』でも、石油がまだなく鯨油のために捕鯨が行われていた19世紀初頭のクジラの捕まえ方が細やかに記されているが、その『白鯨』の元ネタになった沈没事件を扱った本映画でも捕鯨のシーンがしっかりと描かれている。それを見ると、機械とかではなく腕で銛を投げてクジラにダメージを与えているのだから恐れ入る。しかも手漕ぎのボート数艘で追い回して捕まえるのだからたくましい話だ。

迫力もあるので映像資料になりえそうな気さえする。

ほかにも捉えたクジラの頭のなかに潜って油を回収したり、そのときのニオイが強烈であったり、そういった点も知らない人からすれば「へぇ」と勉強になる。

 

30メートルクラスの巨大なクジラには勝てない

そんな力強い男たちでも30メートルクラスの白鯨には勝てない。準備もしていないのだから当然だろう。

小説『白鯨』では巨大なクジラに狂気のような敵意を剥き出しにて挑んでいく物語であるが、このエセックス号の話はクジラが捕れなくてさらに遠くへ船を進めたところ、噂にしか聞いていなかった巨大な白鯨に遭遇して、その圧倒的な力で船をあっという間に破壊されてしまうのだ。

それまで多くのクジラたちを油目的で捕獲し殺してきた人間への復讐であるかのように、または天罰であるかのように為す術なくやられている。

怖ろしいことに、船を破壊されて複数のボートで逃げても巨大クジラはひっそりとあとを追いかけてもいた。そして改めてそのボートにも攻撃を加えている。

どんな執念なんだという話だ。これまで海を我が物顔で渡り、そこの生物たちを自分たちの望むままに獲っていたのだろうが、海で調子に乗っていると痛い目にあうということだろう。

最後に遭遇した時には、銛で射抜くチャンスが有ったのに主人公のオーウェンはクジラと目があってその攻撃をやめている。あのクジラの目にどんな意味があるのか? どんな攻撃をしかけても結局転覆させられて死ぬだけと訴えているのか。いや、もしかしたら巨大な白鯨としてはただ遊んでいただけなのかもしれない…。いずれにしても海をナメていると、クジラをナメていると、命がいくつあっても足りないことがわかる。

 

死ぬよりも辛いサバイバル

船を潰されボートで逃げた主人公たちは一度無人島に避難し、そこから再びボートで海を渡ろうとしている。中には無人島に残った者もいる。最終的には、どちら側にも死者を出しているのだからどちらの選択が正しいかなんてものもわからない。

たとえ生き残ったとしても、生き残るために死んでいった仲間の死肉を食べてしまったという、宗教的にも道徳的にも許されないであろうことをやってしまっている。

生き残るためには仕方のないことなのだろうが、それによって背負ったカルマは死ぬよりも辛いものであろう。

そう、海を、クジラをナメていると、死ぬよりも辛い目に合うのだ。

ボートに乗って無人島を脱出した者の中には耐えられずに銃で自殺してしまった者までいる。小説家のメルヴィルに述懐するトーマスも、それまで死肉を食したことをずっと隠していた。隠さないといけないくらい罪深いものだと思い、その罪悪感にずっと耐えなければならなかったのだ。

それ、考えると、ホント辛い。

生き残ったものたちはその贖罪を、ある者は島に残ったものを助けに行くことで、またトーマスのようにすべてを話すことで果たしている。

自分たちが助かったからと、あったことをなかったことにしていると、海の恐ろしさは次代や後世に伝わらない。克服する知恵も発達しないだろう。

この映画は、それらの伝承のためにも一役買っているような映画なのだ。

改めていう、海やクジラをナメてはいけない。

日本にはまだ捕鯨の文化があるけれど、捕るにしても原罪やそのあたりを心得て捕る必要があるのだろう。(捕鯨反対の海外の人からするとストレートに「捕るな」と言いたいのかもしれないが)

この猫の目にはそう映った。

 

【参考動画】


映画 『白鯨との闘い』予告編【HD】2016年1月16日公開

『ブラック・スキャンダル』 公務員が私心で動く危うさを知りたい時に観たい映画

『ブラック・スキャンダル』

公開:2015年9月18日(アメリカ)

上映時間:122分

監督:スコット・クーパー

脚本:マーク・マルーク、ジェズ・バターワース

製作:スコット・クーパー、ジョン・レッシャー、ブライアン・オリバー、パトリック・マコーミック、タイラー・トンプソン

音楽:トム・ホルケンボルフ

撮影:マサノブ・タカヤナギ

編集:デイビッド・ローゼンブルーム

出演:ジョニー・デップ、ジョエル・エドガートン、ベネディクト・カンバーバッチ、ロリー・コクレイン、ジェシー・プレモンス、他

 

【あらすじ】

1975年、サウスボストン。イタリア系大物マフィアを逮捕するため、FBI捜査官のコノリーは同じアイリッシュ系でギャングのバルジャーに情報屋として手を組むことを持ちかける。バルジャーの弟で政治家のビリーもコノリーに協力し、イタリア系マフィアに蝕まれていたボストンを浄化することに成功するが、ギャングとFBIと政治家の癒着は、結果としてギャング・バルジャーを好き放題させことになるのだった…

 

レビュー目次

 

 

悪の根絶のために悪を利用

ボストンの巨悪だったイタリア系大物マフィアを逮捕するために、その大物マフィアと敵対関係にあったギャングと手を組む。

悪を倒すために悪を利用するこの構図だけを見ると、社会における適材適所と通ずるものがあるが、倒した悪に代わって協力してくれた悪が、敵がいなくなった街で同じような犯罪に手を染め好き放題していくのであれば、社会からすれば一体何のために大物マフィアを逮捕したのか意味がわからない。

そこに正義を謳われても、矛盾しか感じられず、納得できるはずもないだろう。

さらに言えば、ギャングと政治家は兄弟、FBI捜査官はその幼馴染とくる。

私欲による繋がりであったと疑われても仕方がない。 

 

私心による正義

FBIのコノリーに注目しても、彼は世の中のためというよりは自身の出世欲のために同郷のバルジャーと手を結んで大物イタリア系マフィアを逮捕している。自分が出世できた見返りのようにバルジャーのその後の犯罪を黙認し、証拠も消すという加担まで行っているのだから、法治国家における公人としては失格であろう。

興味深いのは「紙に書かれた法律よりも大事なのは血の絆や名誉や忠誠心」といったことを口にしている点だ。

コノリーの中では、法律以上の正義があるようなのだ。

たとえその結果としてこの国の法律を破る犯罪に加担していても、自分が正義であると思うのだから正義であるという理屈なのだろう。

そこに皆が共感できる大義があれば、大した理屈だ。

だが、彼の行動の動機は出世欲を筆頭に私欲だ。大いなる私心によって突き動かされ、その私心のせいで、結果として人の命を奪う大罪まで見逃すこと(ときに促すこともした)になったのだ。普通の庶民の感覚で言えば、なかなか共感されることではない。少なくとも、この国の法律がそれを認めていない。

 

同情できる点

もしかしたらFBI捜査官のコノリーも、まさかバルジャーがあそこまで好き勝手やるワルであるとは思っていなかったのかもしれない。最初に約束した「殺人はしない」もちゃんと守ってくれるものだと…。ずっとビジネスとしての付き合いができると…。

ところがそうはならなかった。

本作において、バルジャーは息子を病気でなくし、母親が他界したあたりから「人が変わった」という脚色をとっている。神が与えた運命が結果として歯車に狂いを生じさせたというなら、その点には少なからず同情はできる。

ただし、すべてを運命のせいにして、自分の罪を棚上げにするのは同情に値しない。

バルジャーのお陰で富と栄誉を手に入れたと言い訳しているシーンもあるのだから、結局栄光を手放したくないだけにも見える。それもまた私欲だ。

どこかで公人としての自覚を持ち(または「取り戻し」)、バルジャーとの関係に区切りをつけていれば、FBI捜査官コノリーの逮捕という結末も避けられたかもしれないだろう。

もっとも、それができないであろうこともこの猫の目にはよくわかる。

コノリーは、むかしバルジャーに恩があるから関係を切れないというような旨も奥さんに吐露している。大義よりも義侠を優先しているのだ。その義侠もまた私心である。コノリーは色んな意味で私心(私欲含む)に取り憑かれているような男なのであって、その哀れさにも私は改めて同情してしまうのだった。

私心(私欲含む)の恐ろしさがわかる映画だ。

 

【参考動画】

 


映画『ブラック・スキャンダル』予告編

『スーサイド・スクワッド』 正義とは何かを考えたい時に観たい映画

『スーサイド・スクワッド』

公開:2016年8月5日

上映時間:123分

監督:デヴィッド・エアー

脚本:デヴィッド・エアー

製作:チャールズ・ローヴェン、リチャード・サックル

音楽:スティーヴン・プライス

撮影:ローマン・ヴァシャノフ

編集:ジョン・ギルロイ

出演:ウィル・スミス、マーゴット・ロビー、ジャレッド・レト、ジョエル・キナマン、ジェイ・コートニー、ジェイ・ヘルナンデス、アドウェール・アキノエ=アグバエ、カーラ・デルヴィーニュ、他

 

【あらすじ】

スーパーマンが死亡したことでメタヒューマンの新たな対抗策として終身刑や無期懲役刑の極悪人(スーパーヴィラン)たちで構成する特殊部隊タスクフォースX(通称「スーサイド・スクワッド」)が結成されるが、そのうちの一人であるラスボスこと魔女「エンチャントレス」が逃走、人間をおぞましい怪物兵士に変え、さらには怖ろしい兵器を作り出して人類滅亡を企てるのであった。これを倒すため、スーサイド・スクワッドの極悪人たちが動き出す…

 

レビュー目次

 

 

正義ってなんだろうか?

正義の味方のスーパーマンでも破壊力ありすぎて被害に巻き込まれた人達からすると危険因子に見えてしまえば、一方でどんな極悪人でも人類のために戦ってくれたら正義に見えてしまう…

この映画は『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』から続く「正義とは何か」を問いかけてくるような作品だ。

ただし、活躍する極悪人たちは基本的に自分勝手で、首に埋め込まれた爆弾のため仕方なく出動しているだけであるので、正義の探求をするような重い雰囲気の作品でもない。

悪を退治するために悪をぶつけるという構図なのだから、一般庶民である多くの視聴者からすれば、むしろ気楽に見ていられるものだ。たとえばスーサイド・スクワッドのメンバーが戦闘で誰か死んだとしても、「まあ極悪人だし」と簡単に割り切れてしまえるのだ。人類を滅亡させようとするさらなるスーパーヴィランを退治してくれるなら、正義側が苦労することはないので儲けたものだと思うものだろう。言うなれば漁夫の利を得る根性である。

そしてその根性は、極悪人とはいえ人間をただのチェスのコマでしか見ていないということでもあるので、その浅ましい考え方は本当に正義なのかと、ここでも正義なるものを考えさせられるものである。

 

極悪人でも人類のために戦えば正義

極悪人と呼ばれるそんなスーサイド・スクワッドのメンバーたちにも、それぞれに人間らしい背景がある。娘に会いたいと思うスナイパーもいれば、自分の能力で家族を死なせてしまって苦悩するものもいる。人殺しを生業にしたり一般人が理解できない常軌を逸した行動を取りながらも人間味のある側面も垣間見せられると、それはそれで一般庶民でも同情や共感をしてしまうものだ。さらには、本当にラスボスである魔女を倒してしまうのだから、人類のために大仕事をやってのけた彼らは、その一瞬、人類のためには正義であったと見えるだろう。

それはまた、この現実において素行の悪さから普段より自身は少なくとも正義ではないなと自覚する者、または周りからそのように思われている者からすると痛快でもあると同時に、自分たちならず者であっても正義として活躍できるチャンスが有るものなのだと勇気のようなものを与える。

それはつまり、正義の側がよく口にする「希望」というものであって、極悪人が悪人のために希望の光を照らすのである。

またしても正義なるものがなんなのか、わからなくなってくる映画である。

 

悪人を利用する米国政府は悪?

正義がなんなのかわからなくなり、極悪人が希望の光を照らすような存在であると思いこんでしまうと、今度はそれら極悪人をコマとして利用するだけの米国政府こそが悪であるかのように思えてくることもあるだろう。

人間の正義なるものなんて面白いもので、個々人の内側でその正義なるものの価値基準が決まってしまうのだから、個々人の価値観が変わってしまうと、先日まで正義だと思っていたものも途端に悪へと見えてしまうのだ。

ただ思い出してほしいのは、この映画の世界では人類の驚異となるメタヒューマンなる敵がいて、米国政府もそれと対抗するため、人類を守るために極悪人も利用しているということだ。

その点に着目すると、スーサイド・スクワッドも適材適所という発想になる。「DQNな社員でも配置を変えると成果が上がった」なんていうどこかの企業の事例のように人材を活かしているわけだ。

「人材を活かす」ということを善悪の秤にかけてみると、多くの人はそれを善と見るであろうから、スーサイド・スクワッドを活用する(「利用する」とはもう書かない)この米国政府もまた多くの人からすれば正義となるであろう。

これらのことから、たしかに正義なるものは個々人の内側でその基準を決められてしまうものであるかもしれないが、「人材を活かす」の例でもあるように人類にとって誰しもが納得できる「正義」というものもあるだろうもので、その「正義」を追求していくと案外人類の平和に繋がってくるんじゃないかと、そんなことも考えさせられる映画でもあった。

 

不思議なもので変態であろうハーレイ・クインが次第と可愛く見えてくるこの映画。

そういえば「かわいいは正義」なんて言葉もあるなと思いだしたことを蛇足として付け足しておきたい。

あしからず。

 

【参考動画】


映画『スーサイド・スクワッド』予告1【HD】2016年9月10日公開

『世界の中心で、愛をさけぶ』 恋人との付き合いが倦怠期を迎えているなと思った時に観たい映画

『世界の中心で、愛をさけぶ』

公開:2004年5月8日

上映時間:138分

監督:行定勲

原作:片山恭一

脚本:坂元裕二、伊藤ちひろ、行定勲

製作:本間英行

音楽:めいなCo.

撮影:篠田昇

編集:今井剛

出演:大沢たかお、柴咲コウ、長澤まさみ、森山未來、他

 

【あらすじ】

一緒に暮らそうと引っ越しの準備をしていた律子は荷物の中からむかしのカセットテープを見つけた。聞いてみると子供の頃に聞いたことのある少女の声が収録されていた。当時のことを思い出した彼女は、台風が近づく高松へと向かう。その姿をテレビの台風中継を通じて目にした朔太郎も故郷・高松へと向かうのだった。アキとの記憶を思い出しながら…

 

レビュー目次

 

 

冴えない男に惚れてくれる高スペックの同級生

ヒロインのアキはスポーツ万能で成績優秀で文化祭の演劇で主役に選ばれるくらい容姿もよければ、校長先生の葬式で弔辞を読むくらいしっかり者だ。性格も悪くない。漫画『タッチ』で言うと南ちゃんみたいな高スペック女子高生だ。

劣等感バリバリの奴にはグサッと刺さる、そんな学園の優等生が特に何か秀でているわけでもない、平々凡々の冴えない主人公に向こうから好意を抱いてくれるのだから、マンガや恋愛シミュレーションゲームみたいな話だ。

この映画は何度も見たが、どうしてアキは朔太郎のことが好きになったのか、その点がいまだにわからない。

わからないけど好きになってもらわないと物語は進まないし、物語は面白くならない、なんて理屈でいつも納得している。

まあ、冴えない男に天使が振り返ってくれるって、それはそれで確かに夢がある。世の中の冴えない男には希望を持たせてくれる設定だろうし、希望を持たせた分、読んでくれたり視聴してくれる人も増えるだろう。

我ながら編集者側の都合でそうなったと言わんばかりの理屈だ。

 

でも白血病で死んでしまうヒロイン

せっかく学園でも高スペックな同級生が冴えない主人公に恋をしてくれて二人はめでたく付き合うことになるのに、その恋人がまさかの白血病だったという、韓国ドラマばりの悲しい展開を迎える。

冴えない男たちを喜ばしといて、いっきに突き落とすのだ。

世の中の冴えない視聴者からしても「何だよ」といった展開であるが、それでも世の中の冴えない男たちというのは意外と単純なもので、そんな悲劇にすぐに同調し同情して、まるで自分も悲劇の主人公であるかのように朔太郎に感情移入していくものである。

この映画で涙したという観客が何人もいるのだから、人間というのは基本的に感情移入しやすい生き物なのだろう。少なくともこの猫の目にはそう映る。

 

恋愛の育み方がオシャレ

まあ、とりあえず悲劇やらはひとまず置いておいて、アキと朔太郎の恋の育み方に注目すると、それがまたとてもオシャレだ。

どっちが先にラジオでハガキを読んでもらえるか競ってみたり、声をテープに録音して交換日記にしてみたり、写真館の重じぃの校長先生との恋愛話を聞くために墓場に忍び込んで遺骨の一部を持って(盗んで)きたり、無人島に二人っきりで一泊できたり、そこで見つけた古いカメラのフィルムを現像してみたらオーストラリアの「ウルル」(エアーズロック)が写っていたり、忘れられるのが恐いからとウェディング姿で写真を撮ったりと、恋愛マンガや恋愛小説とかいっぱい読んでいる女子が好みそうなオシャレで思い出に残る恋愛をしているのだ。

しかも男からすると、そのほとんどはアキのほうがイニシアチブをとって、彼女の方から恋心の醸成に動いてくれているのだから、こんな有り難くて恋愛ゲームのような展開もないだろう。

 

恋人との付き合いが倦怠期を迎えているなと思う時に

こんなオシャレでしかも思い出に残るような恋愛の育み方をしてくれるこの映画だけに、恋人と倦怠期を迎えている時に観たいものだ。

恋人との付き合いがマンネリ化していると思っているなら、劇中にあるような恋愛の仕方を参考に、二人の間が盛り上がるような、思い出に残るような小さなイベントを現実でも試してみればいいのだ。

さらに言うと、最後はアキが死んでしまうという悲しい物語であるので、死にゆくアキのために何でもしようとする朔太郎にシンクロして共感して、そこから転じて今の自分の恋人もいつか死ぬかもしれないと思い込めれば、今の恋人を大事にしてやろうと少しは思うことだろう。その少しの思いやりが、カップルの倦怠期を抜け出すきっかけになるのではないかと思うのである。

また、倦怠期を迎えているカップルで一緒に見るというのも一つの手だ。そのオシャレな恋愛の仕方をカップル共に吸収して、ともに相手のことを大事に思うようになれれば、マンネリ化脱出のためにはより効果的であろう。

目指すは「世界の中心でカップル二人して愛を叫びあう」だろうか。それくらい充実した思い出づくりをできるカップルなら、倦怠期なんて完全に抜け出しているだろう。

 

注意点

ただし、注意点としてはカップルのどちらかでも、この映画の編集者の都合で決められたような、あまりに漫画チックな現実ではなかなか有り得そうにない無理のある設定や展開に共感できず感動も出来ない者がいるなら、カップルの倦怠期脱出のためにこの映画を視聴するのは控えたほうがいいかもしれない。「なに、私、病気になった方がいいの?」なんて冷静に分析されて言われた日には、倦怠期脱出どころかますます冷めてしまいそうだからだ。

とはいえ、この映画を観てみないことにはこの映画の主人公達に共感できるか感情移入できるかはわからないので、結局観てみるしかない。それで冷めてしまうようなカップルの仲であったなら、それはもう長くは続かない間柄であったと諦めるしかないのであろう。

もし諦める際は、作中最後「ウルル」へと現在の婚約者と向かったように「後始末」を参考にすれば良いだろう。

あしからず。

 

 

【参考動画】


世界の中心で、愛をさけぶ(プレビュー)

 

『ラストサムライ』 武士道を学びたい時に観ておきたい映画

『ラストサムライ』

公開:2003年12月5日(アメリカ)

上映時間:154分

監督:エドワード・ズウィック

脚本:ジョン・ローガン、エドワード・ズウィック、マーシャル・ハースコビッツ

製作:トム・クルーズ、トム・エンゲルマン、スコット・クルーフ、他

音楽:ハンス・ジマー

撮影:ジョン・トール

編集:スティーヴン・ローゼンブラム、ヴィクトール・ドュ・ヴォイス

出演:トム・クルーズ、渡辺謙、真田広之、小雪、小山田真、ティモシー・スポール、ビリー・コノリー、他

 

【あらすじ】

アメリカ南北戦争にて北側の英雄とされながらも、無関係のインディアンを殺していったことでトラウマとなりアル中になっていた大尉・ネイサンは、ある日、近代化を目指す日本政府より近代兵術の指南役としてオファーを受け、日本に渡ることになった。ところが、いまだ反乱を続ける勝元一派と戦闘になったネイサンら一軍は壊滅、彼は勝元の捕虜となると、その村にて侍たちの生き様を目にしていくのだった…

 

レビュー目次

 

 

アメリカ人が作った武士道映画

私は日本に生を受けて日本で生きているネコなので、時代劇を多く見て侍がどんなものかも見慣れている。日本に住む日本人ならたいがいそうだろう。

刀を持って主君のために戦い、生き恥をさらすくらいなら潔く切腹して、切腹した相手に介錯(首をはねてやる)もしてやる、恥と名誉と情けの戦闘集団だ。

その精神性も日々の生活に根付く情けの価値観からなんとなく理解できている。外国人からするとしかし、それは矛盾が多い思想なのだそうだ。それでもこのように映画作品としてアメリカ人が描こうとするのだから、矛盾なるものでも何か惹かれてしまうものがあるのだろう。

そのアメリカ人たちが何を読んで武士道を描こうとしたのかわからないが、この日本には『葉隠』という書物がある。聞書第一の二にていきなり「武士道といふは、死ぬ事と見付たり」と記される武家倫理の本だ。武士道の精神がなんたるかが書かれてある。ただ、少し難しくもある。

武士道の本といえば、ほかにも新渡戸稲造が書いた『武士道』という書物もある。こちらは新渡戸が侍たちの思想がどんなものであるかを外人向けに外人にもわかるように書いたものであるので、現代日本人が読んでもまだわかりやすい。

その『武士道』よりわかりやすく武士の精神というものを目の当たりにできるのが、このアメリカ人が描いた白人が主役の『ラストサムライ』だ。矛盾が多いなんて言いながら、よく武士道を描けていると思う。

 

どの時代にも戦争によるPTSD(心的外傷後ストレス障害)

主人公である北軍の英雄・ネイサンは、自軍が罪のないインディアンを見せしめのために虐殺するのを目の当たりにし、また自身も参加したことでトラウマを抱くようになっている。

戦後も時々その残酷な光景を思い出しては酒に溺れ、どこか自暴自棄になる姿は、今で言うPTSD(心的外傷後ストレス障害)であろう。

戦場で兵士が心の傷を追うのは、いつの時代でもあるようだ。

それはおそらく西洋に限らず、この日本でも有り得そうなものだ。実際、怨霊となって化けて出るという物語もある。それらはPTSDの一つの例だろう。

しかし本物の武士の精神性を描いた時代劇においてはそういった怨霊の類はなかなか出てこない。PTSDというものもなかなか描かれない。

それはなぜかと言えば、トラウマを抱くような戦を本物の武士たちはしないからである。

この『ラストサムライ』の本編においても、そのあたりを上手く描き分けている。

ネイサンがいた北軍は罪のない者たちを殺したのに対し、侍たちは常に相手に敬意を持って命のやり取りをしている。相手の恥となることは武士の情けでさせず、切腹する際は介錯も務めてやる。それらの所作や倫理観を守ることでたとえ敵軍の兵士の生命を断ち続けていても、一切の恥じなくむしろ誉れとして受け止められるのである。

それはつまり精神をコントロールできている。

その精神のコントロールこそが武士道の真髄であり、武士のあらゆる所作や作法、そして思想はそのコントロールの「方法」なのである。

 

死ぬことが美徳なのではなく武士道の結果として死ぬだけ

『ラストサムライ』の本編では、最後、勝元一派とそれに手を貸すネイサンは負けることをわかっている戦に出、そして敗れている。勝元たちの命の散りぶりから、武士道では死ぬことが美徳であると思われそうであるが、あれはそういったものでもない。『葉隠』の「死ぬことと見付けたり」の後にも書かれてあるように武士は犬死をしない。しかし、主君のためには死ぬことができる。勝元の主君である天皇が死ねと言えば、または用済みであると言えば死ぬことができる。そしてまた、畏れ多くも主君が何か間違った道を歩んでいると悟ったときは、自分たちの命を使ってその旨を伝えるのである。勝元たちの死は、その忠義を果たし切った、つまりは武士道をやりきった結果に過ぎないのだ。

この精神性は私利私欲にまみれたアメリカの軍人になかなか理解できない。クレイジーであるとも思われるだろう。

だが、その武士道の一連の精神があれば、少なくともPTSDを発症させるような罪のない者への虐殺行為は行わないだろう。

古くは日本の精神性も「和」を重んじてきていた。

近代化のためにアメリカから技術を取り入れることはあっても、人種が違う相手を残酷に殺してしまうような性格まで取り入れる必要はない。精神までかぶれてはいけないのだ。和を重んじる日本の伝統をこれからも守り続け、その上で一国として独立していく必要があると、勝元の死が教えてくれるている。

そして教えてくれたのが当のアメリカ人が描くこの作品なのだから、日本にとってもアメリカにとっても色々と皮肉なものだ。アメリカの人たちも、和を持って世界と接していきたいと思うのだろう。そのためにも武士道を学び、広めたかったのかも知れない。この猫の目にはそう思えた。

 

【参考動画】


the last samurai trailer

『スタンド・バイ・ミー』 どこかで大人にならなければならない…そう思った時に観たい映画

『スタンド・バイ・ミー』

公開:1986年8月22日(アメリカ)

上映時間:89分

監督:ロブ・ライナー

脚本:ブルース・A・エヴァンス、レイノルド・ギデオン

製作:ブルース・A・エヴァンス、アンドリュー・シェインマン

音楽:ジャック・ニッチェ

撮影:トーマス・デル・ルース

編集:ロバート・レイトン

出演:ウィル・ウィートン、リヴァー・フェニックス、コリー・フェルドマン、ジェリー・オコンネル、キーファー・サザーランド、他

 

【あらすじ】

12歳のゴーディ、クリス、テディ、バーンの4人組はある日、行方不明になっている少年が30キロ先の森のなかで電車にハネられ、その死体が野ざらしになっている噂を聞く。有名人になりたくて親に内緒でその死体を4人で探しに行くことになるのだが…

 

レビュー目次

 

 

一緒に悪いこともしていた12歳の頃の友人たち

物語は現在作家である主人公が、12歳の頃の親友がケンカに巻き込まれ刺されて死んでしまったニュースを新聞で知ったところから始まる。

12歳の頃の友人は他に2人いて、性格はみな違うのに気の合う4人として親に隠れてやるような真似も一緒にやっていた。

それらを思い出す形で、12歳の4人が「死体探し」をしにいくという本作のボディ部分も始まっていく。

まあ、12歳の子供4人がキャンプ道具を持って親に内緒で30キロ先に向かい、その目的は死体を見つけに行くことで、動機は「有名になれる」からなんだから、見事に子供じみた発想だ。大人からすればこの4人も立派な悪ガキに見えるだろう。

作中でも、カードで賭け事をしたり、夜にはタバコを吸ったり、親父の持っていた酒をくすねてきたり、銃だって持ってきてしまっている。

12歳の子供がタバコを吹かすシーンなんて、いまの日本では教育上問題があるとかで自主規制してしまいそうなものだ。

実際、むかしはよくテレビで放送されていたこの作品も、最近では放送されなくなっている。

もっとも、テディは父親がヒステリックで病院にいたり、クリスもまた家庭環境の悪さから自身もまわりから犯罪をするような子供と見られていたり、ゴーディに至っては優秀だった兄が死んだことで父親に「お前が死ねばよかった」と言われたりと、それぞれ決して家庭が幸福ではないので、彼らの不良行為にも少しは同情したくなるものだ。

また、彼らの兄の世代にはもっと悪いことをする不良グループがいるのだから、それと比べるとまだまだ12歳の彼らは可愛らしくみえるものでもある。

 

子供だからバカができる…それに気づいた12歳

親の前では出来ないことも隠れてし、親に内緒で死体を探しにいくこともし、その旅の途中で馬鹿みたいに騒ぐ真似もした彼ら四人。

テディの言葉を借りれば「子供時代は二度とこない」のだから、いまこそバカをするのだろう。

そしてその言葉からは、彼らの中では子供だからこそバカができて、そのうちそんなマネもできなくなると、心の何処かでわかっているのだとも推測できる。

そのぼんやりとわかっていたものが、本当に死体を見つけてしまい、そこで不良グループとも鉢合わせて悶着になり銃も使ったことで、明瞭になっていくのである。

特に主人公のゴーディは、結局死体を持って帰って有名人になることを拒否した。

「こんなことじゃダメだ」と、そんな真似をしたところで何の意味もないことを悟ったのである。

二日間の死体探しの旅から戻ってくると、たった2日で町が小さく見えたのは、その心の成長によるものだろう。

ただ、それまでの友情が一緒にバカをしていたからこそ成り立っていたものでもあるのだから、そのバカに意味がないと悟ってしまえば、最後のナレーションでもあるようにそれまでの友情も自然と消えていくものである。

 

味方をしてくれた友情はいつまでも残る

自然と消滅していった12歳の友情。

しかし、ゴーディの文才に気づき励ましてくれたクリスと、そのクリスから先生に裏切られた過去を告白されて逆に励ましたゴーディとの友情はいつまでも残るものとなる。

特に二人は、不良グループと鉢合わせた際に最後まで逃げず、銃を使って追い払った仲だ。バーンとテディは逃げ出したのに、最後まで側にいあった二人の絆は硬い。

二日間の旅の後、小学校を卒業して間もなくクリスは町を出て行くが、彼はゴーディの励ましに背中を押されたように勉強して大学に行き弁護士になっている。ゴーディもまたクリスに励まされたとおり、その文才を開花させて作家になっている。

お互いの励ましがお互いの人生に大きく影響しているのだ。

いつまでも馬鹿をやっていてはいけないと悟ったことでこれまでの友情は消えたかもしれないが、その後の人生にも関わるより大きなかけがえのない絆を手に入れれたことは、二人にとってはとても意味のあることだったのではないだろうか。

クリスとは10年以上会っていなかったが、永遠に彼のことは忘れはしまいと心の中で断言するのもそれがためだろう。

 

人間、どこかで大人にならなければならないときがある。それに気づくのは誰かに叱られたり強制されたときではなく、友人(または家族や恋人)に味方してもらえた時こそなのではないかと、この映画を観ていて思えてくるのであった。

 

【参考動画】 


Stand By Me (trailer)

 

『スウィングガールズ』 音楽素人がジャズを始めたいと少しでも思った時に観たい映画

『スウィングガールズ』

公開:2004年9月11日

上映時間:105分

監督:矢口史靖

脚本:矢口史靖

製作:亀山千広、島谷能成、森隆一

音楽:ミッキー吉野、岸本ひろし

撮影:柴主高秀

編集:宮島竜治

 

【あらすじ】

山形のとある高校、夏休みに補修を受けていた女子生徒たちが、補修を受けたくない一心から野球部の応援にいく吹奏楽部用の弁当を届けにいくことに。その道中遊んで弁当を腐らせてしまい、それを食べた吹奏楽部が集団食中毒になると、ピンチヒッターとして楽器演奏無経験の彼女たちがビッグバンド・ジャズをすることになるのだが…

 

レビュー目次

 

 

矢口史靖マジック

それまで何かに挑戦することもなくダラダラと生活してきた音楽経験もない女子高生たちが演奏することやジャズの楽しさに目覚めジャズバンドを組み始める青春ものであるが、メンバー同士の激しいぶつかり合いだとか、くっさいくらいの友情物語だとか、大会で優勝するとか、そんな少年マンガのスポ根モノやハリウッドの青春映画のような高い熱量を持った展開は基本的にない。

これは矢口史靖監督作品ほとんどに言えることで、今作でもその矢口節とも言えるマイペースな調子で物語が進行する。

さらに今回の主人公たちは、夏の補修も口実を作ってサボろうとする本質的に真面目ではない(おまけに飽き性な)女子高生たちときたものだから、そのマイペースっぷりはさらに拍車がかかっていた。

それはそれで熱量があると言えばあるのだが、彼女たちのノリは「はしたない」と言うか、おしとやかさを微塵も感じさせないものばかりなので、見ていて「引きつり笑い」ばかりを起こしてしまう。

ただ、本来女子高生、特に徒党を組んだ女子高生なんてあんなもので、たとえ公の場でおしとやかにしていても家や仲間内ではダラダラしているものである。矢口監督はそのぐぅたらぶりやダラダラを、つまりは女子高生の素の部分を隠すことなく、しかも笑いとして提供してくれるので、日常を見ているような気楽な気分で作品を見ることができた。

そう気楽に見れるものだから、ちょっとした出来事や小さなイベントでも、不思議なもので「青春」をしていると感じてしまい、気がつけばじんわりと感動してしまっているのだった。

ハリウッド映画では感動をわかりやすく生み出すために、感情の起伏を作ろうとし、そのためにジェットコースターのような激しい展開の脚本になりがちだが、矢口監督はその逆のことをやっているわけだ。作品全体の熱量を予め低くすることで、小さな波でも感情の起伏として受け止めれるのだ。

これは矢口監督の一つのマジックだと思う。

のんびり暮らしていると日常の些細なことでも感動になる…胸キュンとか興奮とは程遠いものだが、家猫の私のような普段着感覚で見れる映画が好みである者からすると、しっくりはまって落ち着くものである。

 

全体の熱量は低めでも女子高生たちは身勝手な子供のようにトラブルばかり

なにか巨大な哲学を持ってジャズバンドに打ち込むとか、そういった熱量が一切ないこの映画。ひょんなことから代打でやってみたら楽しくて、吹奏楽部が戻ってきたことでもうやらなくていいと言われると悲しくなって、やりたいと思うから自分たちで中古の楽器を買おうとしたりして…とまあ、動機や行動や感情の起伏がもう子供のそれだ。殊勝だとか健気だとかそういう言葉とも(表面上)無縁で、思いつくままほとんど考えなしに動いているからトラブルも多い。

しかも、お金がなくて楽器が買えないとか、中古で買った楽器がボロボロで直してもらわないといけないとか、ジャズの練習をする以前の段階でトラブっている。やっと楽器を手に入れてジャズの練習をまともに始めるのは本編の半分あたりに達した頃だ。

そんなもので本当にジャズバンドの話なのかと首を傾げたくなるくらいなのに、トラブっている本人たちは妙に行動力を発揮しているから、彼女たちから変な熱量も感じ取ってしまう。

 

サークル活動としてゼロからジャズバンドを作りたい人に

全体的に熱量が低いと言っても冷めているという意味でもなく、ちょっとズレたところで大人の良識を超えるくらい彼女らスウィングガールズたちはアクティブである。

プロのジャズミュージシャンになろうとしているストイックな人からするとふざけた連中にしか見えないだろうが、部活やサークルとして一から、いや楽器を買うところからだからゼロからジャズバンドを作ろうとしている素人からすると、この映画はとても参考になる。

特に何が参考になるかと言えば、「ジャズバンドってあんな気楽な動機から始めていいんだ」と思える点だ。

また、作中では途中まで5人+2人の計7人でしか動いておらず、ビッグバンドにしなくてもジャズを楽しめると思える点も、これからジャズをやってみたいと少しでも思った人には大いに参考になる。

ついでに田舎でもできると思わせてくれる点もポイントだ。

そして、大きな大会で優勝とかそんな勝利を追求する必要もなく、発表会で演奏して会場と一体になれただけで感動できるんだと教えてくれる映画でもある。

いろんな角度から精神面でジャズ入門へのハードルを下げてくれているステキな作品なのだ。

ジャズそのものも、それくらい懐の深い音楽なのだろう。

 

 

【参考動画】


映画「スウィングガールズ」劇場予告

 

『火垂るの墓』 国防軍が必要だと思った時にまず観ておきたい映画

『火垂るの墓』

公開:1988年4月16日(日本)

上映時間:88分

監督:高畑勲

原作:野坂昭如

脚本:高畑勲

製作:原徹

音楽:間宮芳生

編集:瀬山武司

出演:辰巳努、白石綾乃、志乃原良子、山口朱美、他

 

【あらすじ】

大東亜戦争(太平洋戦争)末期、軍人(海軍)を父に持つ14歳の清太とその妹の4歳の節子は神戸大空襲にて母親と家を失い、身を寄せた親戚の家でも邪魔者扱いされて防空壕の中で二人だけで暮らすことになる。だが、そのうち食べ物もなくなり、妹は栄養失調になってしまい…

 

目次

 

 

原作者は野坂昭如氏

戦争体験を語るその姿から生前左側の人間として見られることも多かった原作者の野坂昭如氏。実際に疎開を体験し、当時一歳だった妹を栄養失調で亡くしているという作中の主人公のような境遇であったらしい。ただ、清太のような妹思いではなかったという。むしろ疎ましく思っていたというのだから、清太ら兄妹を邪魔者扱いして結果的に追い出した親戚のおばちゃんとあまりかわらない。しかも、野坂氏本人は疎開先の年上の娘に熱を上げていたというのだから、かなりのギャップだ。

その妹への贖罪の意味でこの作品を書いたという。ときどきこの作品が反戦作品として見られることがあるが、その執筆背景からでは、戦争が悪いというより、自分自身が悪かったということになるだろう。もしこの作品が本当に反戦を訴えていると原作者本人も言うのであれば、それはつまり自分自身の罪を戦争のせいにしているだけだと捉えられなくもない。

 

戦時下は理不尽のカオス

妹を栄養失調で死なせてしまうという罪、そんな罪を犯してしまうくらい「戦争」というものは不幸である、だから「戦争は大罪であり反対である」というのは、上の理屈から考えると一種の責任転嫁のようでもあるが、他者からの攻撃によって自分たちの命を狙われ、食うことにも困る状況下に置かれれば大小問わず人は罪を犯し、世の中や社会が混沌とするということは間違っていないだろう。

生き残るためにはキレイごとでは済まないのである。

本アニメ映画作中でも、妹の節子が栄養失調になると兄の清太は畑で盗みを働き、捕まって警察に突き出されても、許されると今度は空襲時の火事場泥棒までやっている。果ては、米軍機による空襲を喜んでいるシーンまである。なんだろうか、見ようによっては戦争を商いとする軍事産業の会社の役員のような反応である。(軍事産業の人、申し訳ない)

昨今でも、負け組に追いやられた人間は他人の不幸を喜ぶらしい。特に勝ち組の失墜や失脚にやたらと攻撃的に反応するそうだ。

平時であってもそれだ。やらなければ実際に即自分の命にかかわる戦時下では、法律や理屈と言うものが通用しない瞬間が多々あるだろう。法律や理屈は、その瞬間の命を救えないのだから、当事者が防衛本能と生存本能に従って行動するというのも自然の流れというものだ。

 

反戦映画にならない?

世界情勢に目を向けると、一国が防衛本能や生存本能に従って行動を起こすことがある。他国にいままさに侵略されそうなら、軍を起こしてそれと戦う、つまり戦争に突入するということもその行動の一つだろう。

この日本においては憲法上、国防軍がないのだから、まずは憲法を改正してそれを持つことから始まるだろう。

この『火垂るの墓』を観ていると、まるで反戦を訴えていると捉えられがちのこの映画が、むしろ長年の平和で忘れがちだった防衛本能や生存本能を改めて思い出させてくれると思えてならない。皮肉にもそれは世界の情勢と照らして国防軍を作るという考えにも繋がっていく。

そしてこれまた興味深いことに、この作品をアニメ映画化した高畑勲監督本人もまた、「反戦映画が戦争を起こさないため、止めるためのものなら『火垂るの墓』がそうした役に立っていない」との旨を口にしている。

反戦作品にはならなかったのである。

 

世界情勢の流れから国防軍を望むなら

戦争を止めることは出来ない、ゆえに反戦映画ではない、だから無力。

そう解釈してこの作品を切り捨てるのは、それもまた違うだろう。

戦時下の混沌から、戦争が引き起こす残酷さや理不尽、心身の痛み、そして不幸は本映画を観ていて十分に伝わってくる。

戦争が一度起こると、勝つにしても負けるにしてもそれらの苦しみを誰かが味わうことになる。負ければ自分たちが味わうだろう。勝っても自分たちの手によって相手を不幸にするのだから、PTSDになるくらいの激しい罪悪感も抱くだろう。

それらを理解して、その覚悟を持ってはじめて戦争(防衛戦争含む)を起こさなければならない。

私などはむしろこの映画は、戦うために国防軍を持とうとする人こそ、戦争の怖さを知り、覚悟を持つために観るべきものではないかと思えてくる。

戦争が起こす不幸の恐怖に耐えられないなら、いわゆる反戦左翼の言うようにそもそも軍や戦力など持つべきではない。 

この怖さを受け止めてそれでも覚悟ができるという良心(優しさ)と知性と胆力があれば、少なくとも侵略戦争のような無意味な戦争を起こそうとは考えないのではないだろうか。

 

反戦映画にはならないだろうが、いかにして戦争を食い止めようかと考えるキッカケにはなっている。

争いごとなど無縁な家ネコであるこの猫の目には、そう映った。

 

『誰も知らない』 世の中の理不尽に負けそうになった時に観たい映画

『誰も知らない』

公開:2004年8月7日(日本)

上映時間:141分

監督:是枝裕和

製作:是枝裕和

脚本:是枝裕和

音楽:ゴンチチ、タテタカコ

撮影:山崎裕

編集:是枝裕和

出演:柳楽優弥、北浦愛、木村飛影、清水萌々子、韓英恵、YOU、他

 

【あらすじ】

新しくアパートに引っ越してきた4人の兄妹とその母親。仲の良い家族だが、父親がそれぞれ違う4人の兄妹は学校にもいったことがなく、長兄以外はアパートの大家にすら存在を知らされていなかった。ある日、母親は僅かな現金とメモを残し、男を追いかけて長らく家を留守にする。「誰も知らない」子供たちの誰にも知られない生活が始まる…

 

レビュー目次

 

史実の事件をもとに制作されたドキュメンタリータッチの映画

この映画は実際に起きた事件をもとに作られている。

心理描写など多数の創作があるが、子供たちが「誰も知らない」状態で生活し、そして死者が出た事件が存在していたのだ。

私のような万年家に閉じ込められて家屋の中でしか生活というものを知らないネコならまだしも、高度な社会環境で生きる人間にもこんなことがあるなんて驚きだ。

現実に起きた事件をもとに、ドキュメンタリー演出家の是枝裕和氏がメガホンを取り、ドキュメンタリーカメラマンの山崎裕氏が撮影をしているため、極めてドキュメンタリーのような映画に仕上がっている。時間を掛けて撮影したことにより、髪が伸びたり背が伸びたり出演者たちが本当に成長している過程も散見できるので、見ていると次第に創作に思えなくなってくる。

 

子供たちだけで学校も行かずに家からも出ずに生きていく怖さ

彼ら子供たちだけの生活が始まったとき、長兄で12歳。一番下の妹は5歳だ。クリスマスまでに戻ってくると言っていたのに、年が明け、次の夏がやって来ても彼らは4人で人知れず生きている。

外に出るのは買い物に出る長兄だけ。ほかの3人、特に下の2人はベランダに出ることも禁じられていた。

母親が作ったこの家のルールを見れば見るほど、外に出ると逃げ出して迷子になるからと家の中に閉じ込められている我ら家猫のように思えてならない。

我々家猫がまだ恵まれているのは、それでも飼い主が帰ってくることだ。そして毎日エサを与えてくれることだ。

4人の兄妹の場合、そのうち現金も底をつき、電気も水も止められてしまう。

食事は、仲良くなったコンビニの店員さんたちから賞味期限の切れた廃棄のおにぎりなどをもらい、水は公園から汲みに行くのだから、都会にいながら漂流しているようなものだ。

4人は登校拒否をしている中学生の女の子と知り合ったことで外に出るようになるが、そのうちベランダから落ちた一番下の妹が死んでしまうことになるのだから、家猫なんかと比べ物にならないくらい幸が薄い。

はっきり言おう、エサを与えられるだけまだましな家猫でも、家の中にずっと閉じ込められていると、ただそれだけで鬱になる。そして時々発狂したくなるものだ。

それ以上の理不尽な境遇下に置かれているのだ、4人の心情と精神衛生を想像すると恐怖で身の毛がよだつ。

 

妹の弔い

作中、長兄が当たり散らすシーンがあるが、あれこそが普通の反応、もっともな反応だ。

そこまで追い込まれていながら、しかし妹が死ぬと彼ら彼女らは死んでしまった妹を自分たちでトランクに入れて自分たちで穴をほって自分たちで弔っている。

絶望の中で、なぜそこまでできるのか、私にはわからない。もはやこの家猫には到達し得ていない精神の領域に、中学生以下の子供たちが達してしまったとしか言えない。

それとも、誰にも知られないよう生きてきた習性なのか、死んだことすらも誰にも知られないようカラダが反応してしまったのかもしれない。いや、そんな悲しい習性もないだろう。

妹が死んでも、それでも生き続けようとする彼ら彼女たちに日の光が照らされるシーンがあるが、彼ら彼女らがスゴイ精神の高みに昇り詰めているようで、私にはもう同情すらもできなかった。

 

母親の責任とかそんなレベルじゃない

同情することも、何故か怒ることも忘れてしまう彼ら彼女たちの健気さに、それでも後からフラストレーションが芽生えた。子供たちをあんな理不尽な境遇にした母親はいったい何をしているのだ!と、そんな怒りも後から湧き上がってくる。

母親はたしかに悪い。逮捕されて当然だろうことをした。だが、そんな母親ばかりを責めたところで、兄妹たちを救うことはできないだろう。それもわかってしまうから、得体の知れないフラストレーションをさらに抱えてしまう。

母親の「私にも幸せになる権利がある」といったセリフは胸に刺さるものがある。もともと長兄の父親に理不尽に捨てられたことから、こういう生活が始まったようなのだ。そのことを聞かされた長兄は、自分自身に罪はないのに後ろめたさを感じてしまって、律儀に母親不在の中で妹たちの面倒をみ続けたのだ。

また、仲良くなっているコンビニ店員から児童相談所に行くことを提案されても、過去に同じようなことがあって面倒なことになり、4人一緒に暮らせなくなることがわかっているから却下している。

どこまでも妹弟たちを守ろうとするこの責任感の強さはどんな社会風習が作ったのか。その社会風習のお陰で彼ら4兄妹はさらに追い込まれていっているのだ、この社会の風習そのものにも疑問を抱きたくなってしまう。

さらに社会と言えば、仲良くなった不登校の女子中学生が、お金も底をつきてきた4兄妹を気の毒に思ってカラオケだけとは言え援助交際をしてお金を渡そうとしたシーンにも社会の縮図のその理不尽を感じずにはいられない。人知れず都会で漂流生活をしている子供たちもいれば、カラオケをオッサンと一緒に歌っただけでお金が手に入ってしまう中学生もいるというこの格差。女子中学生は平気な顔でおっさんからお小遣いをもらってしまうけど、長兄は援助交際だということで受け取ることをしなかった、このモラルの差にも社会の理不尽、いや、社会そのものの歪みを感じずにはいられない。

母親だけが悪いでは片付かない、もっと大きな、社会の仕組みにまでその責任を求め、変えなくては彼らのような子は救えない、そう思えてしまうのだ。

 

こんな時に観ればいい作品

最後になるが、世の中に理不尽を感じて社会に対してイライラをつのらせ、果てはその理不尽に負けそうになっている人はこの映画を見るといい。自分以上の理不尽な境遇に立たされる中学生以下の子供たちが世の中にいたことを知ることによって、自分が感じている理不尽がまだまだ小さなものであることを知れるだろう。兄妹たちは、それでも健気に生きていったんだ。

 

【参考動画】


『誰も知らない』予告編