公開:2015年9月18日(アメリカ)
上映時間:122分
監督:スコット・クーパー
脚本:マーク・マルーク、ジェズ・バターワース
製作:スコット・クーパー、ジョン・レッシャー、ブライアン・オリバー、パトリック・マコーミック、タイラー・トンプソン
音楽:トム・ホルケンボルフ
撮影:マサノブ・タカヤナギ
編集:デイビッド・ローゼンブルーム
出演:ジョニー・デップ、ジョエル・エドガートン、ベネディクト・カンバーバッチ、ロリー・コクレイン、ジェシー・プレモンス、他
【あらすじ】
1975年、サウスボストン。イタリア系大物マフィアを逮捕するため、FBI捜査官のコノリーは同じアイリッシュ系でギャングのバルジャーに情報屋として手を組むことを持ちかける。バルジャーの弟で政治家のビリーもコノリーに協力し、イタリア系マフィアに蝕まれていたボストンを浄化することに成功するが、ギャングとFBIと政治家の癒着は、結果としてギャング・バルジャーを好き放題させことになるのだった…
レビュー目次
悪の根絶のために悪を利用
ボストンの巨悪だったイタリア系大物マフィアを逮捕するために、その大物マフィアと敵対関係にあったギャングと手を組む。
悪を倒すために悪を利用するこの構図だけを見ると、社会における適材適所と通ずるものがあるが、倒した悪に代わって協力してくれた悪が、敵がいなくなった街で同じような犯罪に手を染め好き放題していくのであれば、社会からすれば一体何のために大物マフィアを逮捕したのか意味がわからない。
そこに正義を謳われても、矛盾しか感じられず、納得できるはずもないだろう。
さらに言えば、ギャングと政治家は兄弟、FBI捜査官はその幼馴染とくる。
私欲による繋がりであったと疑われても仕方がない。
私心による正義
FBIのコノリーに注目しても、彼は世の中のためというよりは自身の出世欲のために同郷のバルジャーと手を結んで大物イタリア系マフィアを逮捕している。自分が出世できた見返りのようにバルジャーのその後の犯罪を黙認し、証拠も消すという加担まで行っているのだから、法治国家における公人としては失格であろう。
興味深いのは「紙に書かれた法律よりも大事なのは血の絆や名誉や忠誠心」といったことを口にしている点だ。
コノリーの中では、法律以上の正義があるようなのだ。
たとえその結果としてこの国の法律を破る犯罪に加担していても、自分が正義であると思うのだから正義であるという理屈なのだろう。
そこに皆が共感できる大義があれば、大した理屈だ。
だが、彼の行動の動機は出世欲を筆頭に私欲だ。大いなる私心によって突き動かされ、その私心のせいで、結果として人の命を奪う大罪まで見逃すこと(ときに促すこともした)になったのだ。普通の庶民の感覚で言えば、なかなか共感されることではない。少なくとも、この国の法律がそれを認めていない。
同情できる点
もしかしたらFBI捜査官のコノリーも、まさかバルジャーがあそこまで好き勝手やるワルであるとは思っていなかったのかもしれない。最初に約束した「殺人はしない」もちゃんと守ってくれるものだと…。ずっとビジネスとしての付き合いができると…。
ところがそうはならなかった。
本作において、バルジャーは息子を病気でなくし、母親が他界したあたりから「人が変わった」という脚色をとっている。神が与えた運命が結果として歯車に狂いを生じさせたというなら、その点には少なからず同情はできる。
ただし、すべてを運命のせいにして、自分の罪を棚上げにするのは同情に値しない。
バルジャーのお陰で富と栄誉を手に入れたと言い訳しているシーンもあるのだから、結局栄光を手放したくないだけにも見える。それもまた私欲だ。
どこかで公人としての自覚を持ち(または「取り戻し」)、バルジャーとの関係に区切りをつけていれば、FBI捜査官コノリーの逮捕という結末も避けられたかもしれないだろう。
もっとも、それができないであろうこともこの猫の目にはよくわかる。
コノリーは、むかしバルジャーに恩があるから関係を切れないというような旨も奥さんに吐露している。大義よりも義侠を優先しているのだ。その義侠もまた私心である。コノリーは色んな意味で私心(私欲含む)に取り憑かれているような男なのであって、その哀れさにも私は改めて同情してしまうのだった。
私心(私欲含む)の恐ろしさがわかる映画だ。
【参考動画】