公開:2013年11月16日(日本)
上映時間:113分
監督:森崎東
原作:岡野雄一
製作:井之原尊
脚本:阿久根知昭
撮影:浜田毅
音楽:星勝、林有三
編集:森崎荘三
出演:岩松了、赤木春恵、原田貴和子、加瀬亮、大和田健介、竹中直人、松本若菜、原田知世、温水洋一、他
【あらすじ】
音楽活動もすれば漫画も描くさえないサラリーマン「ゆういち」(愛称:ペコロス)。彼の高齢の母「みつえ」が次第と認知症の症状を見せはじめ、グループホームへ入居させることになった。息子のことも忘れていく母であるが、戦争時に亡くなった彼女の妹や、生き別れとなった幼馴染、そしてすでに死んでいる旦那との記憶が思い返されていく…。
目次
親が認知症になるということ
あれだけしっかり者だった母親が、年老いてボケ始めていく。
10年前に父親が死んだことも忘れ、夜中にもどこかへ出かけようとして、消さなくてもいい電気も消して部屋が真っ暗になって「何も見えん」という。
怒っていいのか、呆れていいのか、しかしそれが認知症という一つの病気であると思うとそのどちらもできない。どちらもできないと、振り回される立場の子供としては悲しくなってくるものだ。
現実の家庭を見ても、そういった親を抱える人は多い。いまはなくても歳を取っていけばいずれそういう「抱えもの」をする境遇になっていくものだろう。
無視したくても実の親である以上、ほうっておくことも出来ない。それでいて自分も働いて生活していかなくてはいけない。お金があれば、誰かを雇って診てもらうということもできようが、そんなものは一握りの金持ちだけができることだ。現実は、その介護と労働の二つの責め苦に挟まれて、肉体と精神をすり減らしていくだけである。
認知症の症状をややコミカルに
映画を見る限り、認知症の症状をややコミカルに描いているので、特に、認知症の親を持つという境遇に現在ない人なら他人事のように笑って見ていられるであろう。
「馬鹿だなぁ」「まるでコントだなぁ」そう思うところであろう。
だが、現在進行形で認知症の親を介護している人からすると、それらは「あるある」であり主人公への共感の連続となる。その「あるある」や共感を最初はニヤニヤとして見ていられても、ふと自分の現実に重ねるとちょっとした恐怖として胸に広がる。その怖さはホラーにも近い。
現在介護とは無縁の立場にいる人でも「いつかは自分も」「もし自分がその立場だったら」とその苦労に気づいたとき、同じような恐怖を抱くことだろう。
怖さを知って初めて心動かされる作品
親が認知症になる。その恐怖を感じれるか感じられないかで、この映画の感動が変わってくる。
その恐怖を想像できない人には、映画のすべてが他人事で終わる。
「大変だね」と仮に同情したとしても、感動はまずない。
言ってしまうと、この映画は見る人を選んでいる。
選ばれた人=その苦労を知っている者、または苦労は知らなくても想像できて恐怖する者は悲しみと切なさと一時の喜びも享受できる。
そして、それらの感情はワンセットだ。悲しみや切なさに潰され続けるわけでもなく、喜びや笑いがずっと続くわけでもない。喜んでいても常に次には切なさが来ることを理解して覚悟しているような状態である。
作中、帽子を被ったままでは息子だと理解してもらえないくらい認知症が進行していても、帽子を取って禿頭を見せるとすぐに思い出してくれるシーンがいい例だ。禿頭で思い出してくれたことを微笑ましく思いながらそこに含まれる認知症の重みも理解して辛くなり、その辛さを受け止めた上でそしてやっぱり微笑んでいたくなるのである。
この矛盾した感情の共存こそが、この映画を見る時のキモでないかと私のような家猫の目には映るのである。
認知症の親を抱えているのはあなただけではない
先述したように、この映画を観ていると、特に親が認知症である者からすると「あるある」が多い。
確かに自分のことと照らして恐怖する映画であるが、その「あるある」は同時に、親が認知症で苦労しているのは自分ひとりではないと気づかせてくれる。
施設に入れること、フリーランスで働くことなど、どう介護と接するかの参考にもなろう。
主人公のように明るく陽気にしていられるか、そこに自信は持てなくても、その主人公の陽気さもまた介護中の精神維持の参考になるであろう。
大変だけど、すべてがすべて負の遺産として自分一人で抱え込む必要はないのである。同じような苦労をしている人は多いのだ、仲間がいるのだ。少なくともこの主人公を見ていると、そう勇気をもらえるような気がしてくる。
もう一つの恐怖
親が認知症になる恐怖。それがわかって理解できる映画であるとこの猫の目は解釈したが、この映画にはもう一つの恐怖がある。それは「自分自身もいつかああいう風に記憶がなくなっていくかもしれない」という恐怖である。
自分もまたいつかはボケるかもしれないのだ。子供の頃の楽しい思い出も、大人になってからしたいろいろな苦労もすべて忘れていくかもしれない。
この映画では、認知症になった母親の過去の景色も描かれている。息子である主人公が母親の手紙などからその過去に思いを馳せてくれたからの描写であるが、自分が認知症になった時にそういうことをしてくれる子供がいるのか、親族はいるのか、そういうことを考えても寂しくなるのだ。
その寂しさはしかし同時に、こうやって母親の過去に思いを馳せてやれるだけでも、それはそれで認知症の母への親孝行になるのではないかと、気づかせてくれる。
その気付きが勘違いかもしれなくても、そんな勇気ももらえる映画であるのだ。