『バッファロー'66』
公開:1998年6月26日(アメリカ)
上映時間:110分
監督:ヴィンセント・ギャロ
脚本:ヴィンセント・ギャロ、アリソン・バグノール
製作:クリス・ハンレイ
撮影:ランス・アコード
編集:カーティス・クレイトン
音楽:ヴィンセント・ギャロ
出演:ヴィンセント・ギャロ、クリスティーナ・リッチ、ベン・ギャザラ、アンジェリカ・ヒューストン、ロザンナ・アークエット、ミッキー・ローク、ジャン=マイケル・ヴィンセント、他
【あらすじ】
大金を注ぎ込んで競馬で負けたことでノミ屋の知人の代わりに刑務所に入っていたビリー。出所後、バッファローの親に政府の仕事で遠くにいたと嘘をつき、さらにはフィアンセを連れて帰ると言ってしまった彼は、たまたま側を取り掛かったレイラを拉致し、自分のフィアンセ役を演じて一緒に実家に帰るよう強要するのだった…
レビュー目次
コンプレックスと見栄っぱり
人間社会の中にも序列というものがあるようで、その序列の下層にいる、いわゆるうだつが上がらない人間というのは観察すればするほど面白い。
下位層にいながら見栄だけはあって、しかもその見栄を親に対しても張ろうとする。
親を安心させたいという孝行の気持ちが働いているのか、それともあまり愛情を注がれた記憶がない親をどうにか振り向かせたかったのか、またはその両方なのか、どちらにせよ主人公の行動がこの猫の目には一種のファザコン、マザコンに思えた。
そして、自分より立場の弱い相手には厳しく冷たい。
こういう見栄を張る輩は、しかしどこにでもいるものだ。
人間世界を見渡せば力のあるなし問わず、地位の上下に関わらず、見栄っ張りというものはいるもので、それら見栄っ張りは大方、何かしらのコンプレックスを抱いているものだと私などは睨んでいる。
無論、我々猫の世界を見渡しても、同じような猫がいる。誰かに引け目を感じたり、劣等感を抱いている猫は、さらに序列の低いものを攻撃し、偉そうに振る舞うものだ。
弱肉強食という野生の掟がそうさせるのかもしれない。
ただし、その見栄も、ただの虚栄であると周囲に知られると惨めである。
主人公の言葉を借りれば、
「生きていけない…」
と、なるのだろう。
惨めさを同情してくれる女は偉大
ところがこれまた面白いもので、人間、特に女性の中には母性というもの存在しているらしく、生きていけないと思うくらい惨めな見栄っ張りを、愛おしく、なぐさめてやりたいと思うことがあるらしい。
主人公にさらわれてフィアンセ役を強要されたレイラが言うには、主人公は誰よりも優しい男なのだそうだ。
それまで自分を脅して連れ回して変な役まで強要した相手に同情するなんて変な話だが、誘拐された女が誘拐犯の男に同情して心を通じ合わせるというケースも実際に少なくないようなのだから、有り得る話らしい。
まあ、実は女性との交際経験がないとわかったり、目の前で初恋の相手にこっぴどく馬鹿にされている姿を見れば、この猫でも慈悲の心で同情の一つくらいしよう。
それくらい、惨めな男なのだ。
見栄を張っていた分、たいそう惨めなのだ。
その惨めさを共感して、その心でレイラのことを見ると、もうレイラ役のクリスティーナ・リッチがかわいく見えてしょうがない。
少しムチムチしていて、どこにでもいるような普通の女の子なのに、そのムチムチさも普通っぽさもすべて愛おしくなる。
どれだけパーフェクトなスタイルと美貌を持っていた女性であれ、この主人公を同情してやれない女ならレイラには敵わないであろう。そう思えてくるくらいである。
主人公は最後、自分を惨めにするきっかけを作った(正確にはただの逆恨み)元アメフト選手を殺そうとしていたにも関わらず、自分に同情して好きになってくれたレイラの存在のお陰で思い止まっている。その結末に何の未来もなく誰も同情してくれないこと、逆に思いとどまればレイラという女と一緒に幸せな生活を今後遅れると悟ったわけだ。
女の存在は偉大だ。
下位層の者を慰める映画
もっとも、その思い止まった時の、YESの「Heart of Sunrise」をBGMに使いながらの「やっぱや~めた」的な変わり身の様は、まさにうだつの上がらない男っぽいので笑えた。
これには監督で脚本もして音楽も担当して主人公も演じたヴィンセント・ギャロのセンスの高さ感じた次第だ。
決して圧倒的ではない、むしろチープな作品かも知れないが、チープな中にも才能を光らせるところに、下位層の逆襲のようなものも感じずにはいられなかった。
色んな意味で、下位層にいる人間を慰めてくれる映画である。
そう感じてしまう家猫の私もまた、下位層の猫なのだろう。
下位層だって楽しめるじゃない、猫だもの。
【参考動画】