映画ソムリエを目指す猫

〇〇なときに観たい映画をレビューしており候。

『思い出のマーニー』 反抗期の心をほぐすヒントを得たい時に観たい映画

思い出のマーニー

公開:2014年7月19日(日本)

上映時間:103分

監督:米林宏昌

原作:ジョーン・G・ロビンソン

脚本:丹羽圭子、安藤雅司米林宏昌

音楽:村松崇継

出演:高月彩良有村架純寺島進根岸季衣松嶋菜々子黒木瞳、森山良子、吉行和子、他

 

あらすじ

両親と祖父母を早くに失い、佐々木頼子の里子として育てられていた杏奈であるが、ある時から感情を表に出さなくなっていた。持病の喘息のこともあり、頼子は杏奈を札幌から海辺の田舎町に住む親戚の大岩夫婦の家へ夏休みの間だけ預けることにする。その町にて沼の側の洋館を目にした杏奈は夢の中でマーニーという少女と出会うのだった…

 

レビュー目次

 

 

普通を求める少女

私は貰いっ子で、実の両親は早くに死んでいて、義母は私を育てるために自治体から補助金を貰っているようだから、私は誰からも本当に愛されていない一人ぼっちの存在なんだ、だから義母のことも「おばちゃん」なんて呼んで距離を置いて傷つけてしまっています…。ちなみに私は中学一年生です…。

主人公・杏奈の心の中を俯瞰してみるとこういった設定だと思われるが、こういうのもいわゆる中二病というのだろうか?

そのあたり家猫である私にはよくわからんが、反抗期なんだろうなということはよくわかる。

どんな子供にもこの頃になると大小にかかわらず反抗期なんてものはあるもので、それが暴力に出てしまうか、暴言に出てしまうか、はたまた被害妄想をすることで親との距離を心の中で作ってしまうか、そのアクションも色々だ。

彼女の場合、実際に両親も死んでいて貰いっ子という少し特殊な生い立ちもあるものの、あの心配症の義母を見ると自分が誰からも愛されていないと思うのはやはり被害妄想だろう。そしてそのアクションは反抗期の少女にとっては普通のことであろう。他人の家の芝は青く見えるものだし、人間の幸不幸なんてその人になってみないとわからないものなのだから、自分が不幸だと思っていても、傍から見るとそんなに不幸にも見えなかったりもする。マーニーが彼女のことを羨ましがったように、だ。

杏奈自身が七夕まつりで短冊に書いた「普通に過ごせますように」も、実はもうすでに「普通」に過ごしているのに、そう思いたくないだけなのではないかと思えてならない。普通ではないと思っていられれば、生活の中で見つける些細な嫌なことにも私は普通ではないのだからと言い訳ができるものだ。

 

自問自答

そして杏奈自身は基本的にいい子だから、本当はそんなこともすべてわかっているのだろう。

マーニーと会話をしたり、一緒に船に乗ったり、古く誰にも使われていないはずの洋館でパーティが行われていたり、そのパーティに呼ばれたり、一緒に踊ったりと、質感のある描写が続いたと思ったら、それらがすべて夢幻と消えて道端などで寝そべっているアンナのシーンへと移ってしまう白昼夢のような演出から、マーニーとは杏奈が頭のなかで作った空想の友だちであることがわかる。そんな自分の頭の中だけに存在するマーニーと会話して彼女に慰めてもらうということは、それはつまり杏奈の心のなかでの自問自答だからだ。

里親の愛情についてもマーニーに慰めてもらっている杏奈は、結局それについても本当はちゃんと愛してくれていると自分でわかっているわけだ。

 

わかっているけど認められない反抗期の心をほぐすには

わかっていることなのに認められない、そして距離を広げようとするこの反抗期の心の矛盾。

そういった矛盾の心を解きほぐすにはどうすればよいのか、その方法を研究するという視点で見ると、この『思い出のマーニー』は興味深い。

本作を最後まで見るとマーニーとは「幼い時に語ってもらった思い出が作った幻影」であったようなのだが、まだ小さいときにあのように保護者が自身の「思い出」を語って聞かせておくと、まるで刷り込みのように、思春期を迎えてアイデンティティを形成する際の一つの種になりうるのではなかろうか。そしてそれを思い出させることで一気に思い出させることで自我の形成を促し、反抗期の心もほぐれるのではないだろうか。

例えば作中のように、その語った思い出が悲しくも優しい物語であったなら愛情を持って悲しい出来事も乗り越えられる強い心を形成してやることができ、果ては反抗していた相手とも向き合ってくれるのではないかと期待してしまうのだ。

もちろん、その思い出を語る上での大前提は愛情だ。邪心やいたずら心で絶望感しかない怖ろしい話ばかりを刷り込めば世の中を悲観ばかりする心が出来上がろうし、他人を傷つけてもOKなんて横暴なことを刷り込めば人情も何もない心が出来上がるだろう。また、恐ろしい話でも『鬼太郎』を描いた漫画家・水木しげる氏が幼い頃に聞かされた妖怪話のように自戒や社会倫理を教えるためにするのであれば、それはそれで愛情のあるお話となるのだろう。

なお、ずっと長く言い聞かせすぎても、その言い聞かせたことに反抗してしまう可能性もあるので、聞かせ続ける時期のリミットは見定めなくてはならないだろうが、愛情を持った思い出なりお話は、たとえ一時的に反抗されても、思い出せばそれが愛情だったといつかは気づいてもらえるものだろう。

まあ、杏奈のようにマーニーのことを思い出せたこと自体が奇跡であって、思い出してもらえなければ杏奈の母親のようにグレてしまう場合もあろうことだから、口酸っぱく日頃から優しさや愛情を説いている方が良いのかもしれない。

義母の心配性は面倒かもしれないが、彼女がずっと杏奈に愛情を掛け続けていることは決して間違いではないし、それがあるからこそ杏奈がマーニーのことを思い出す奇跡というか運を引き寄せたとも言えるだろう。

 

どうだろうか、この解釈。毎日退屈な家猫の私も基本的にはやさしい奴なのではないかと思えてくるほど優しい解釈ではなかろうか。

それもこれも、私を飼っている優しい主のおかげだろう…認めたくないけど。

あしからず。

 

【参考動画】


思い出のマーニー 予告