『最愛の子』
公開:2014年9月26日(中国)
上映時間:128分
監督:ピーター・チャン
脚本:チャン・ジー
音楽:レオン・コー
出演:ヴィッキー・チャオ、ホアン・ボー、ハオ・レイ、トン・ダーウェイ、チャン・イー、他
【あらすじ】
離婚後、小さなネットカフェを営みながら男手一つで3歳の息子を育てるティエンであったが、ある日その息子が誘拐されてしまう。別れた元妻(現在別の男と結婚している)とともに必死に探し、三年後見つけることになるものの、息子に自分たちの記憶はなく、彼を育てていた女を母親と慕っていたのだった…
レビュー目次
まず知っておきたい中国の社会背景
この映画は2008年に子供が誘拐され、その3年後の2011年に発見されて実の親のもとに戻ってきたという実際に起きた事件を基にして作られている。(ドキュメンタリーではないので登場人物たちの設定などは多少異なる)
史実が元になっているので、中国という国の当時の社会背景をわかっていないと日本人には理解しづらい点もある。
まず、知っておかなければならないのは、中国は1979年頃から2015年まで一人っ子政策をとっていた点である。
そのせいで跡取り息子欲しさに誘拐事件や人身売買が頻繁に起きていた。子供の誘拐の件数は年間20万人とも言われていた(中国政府の公式発表では1万人)。当時の中国には人身売買に対する厳しい罰則もなかった。
さらに、本作でも描かれているように、事件当時は子供が行方不明になっても、不明になって24時間経たなければ警察が動いてくれないという規則もあった。誘拐された子供はバイヤーの手に次々と渡って遠くに運ばれていくため、24時間後に捜索を始めても間に合わないのである。
子供が行方不明なうえにそこに付け込まれて詐欺にも狙われる不幸
本編では、子供が行方不明になってから父親のティエンが懸命に全国を探している。ネットを介して情報を集め、あちこち飛び回っていた。ただ、懸賞金目的の詐欺も多く、他人の不幸に乗じて金銭を巻き上げようとする集団にも遭遇している。逆に、子供を養育できなくなった親が息子に行方不明の子供を演じさせて引き取らせようとする場面もあった。
いまではGDP世界第二位の中国でもその内情を見ると貧富の差が激しい。農村部と都市部では戸籍も異なり、農村部から出稼ぎに来て懸命に働いても都市部の戸籍を取ることはできない。
日本のオレオレ詐欺は低所得者が高所得者の年寄りからお金を巻き上げる、貧富の差の復讐と揶揄されるように、格差が広がるとこういった犯罪が増えるものだ。
ティエンは詐欺集団に襲われた時「なんて奴らだ」と言うが、この不幸は社会構造が引き起こしている面もあるだろう。
一人っ子政策がもたらす苦悩
社会構造以外にも、一人っ子政策そのものが子供を誘拐された親たちを苦しめてもいる。
本作では行方不明の子供を持つ親たちのコミュニティがあり、そのリーダー的存在のハンは結局子供を新たに作ることを決断している。結果、妻も妊娠している。
日本人の感覚からするとそれに何の問題があるかと思われるが、中国政府が一人っ子政策をとっているため、最初の子供の死亡を証明しないと次の子供を「合法」で産めないのである。
6年間ずっと探し続けている行方不明の子供を「死亡」として扱わなければならないのだ。それは行方不明になった子供を探すことを諦めることを意味する。
規則だから仕方ないとはいえ、国民の幸福に寄り添えない規則や政策など一体何のためにあるのかと考えさせられる。
社会構造の中で交錯する母親たちの愛情
ティエンの行方不明の息子(ポンポン)が3年ぶりに農村で発見されると、育てていたリー・ホンチンという女も物語の柱となってくる。
実の親たちはホンチンの元で育てられていた自分たちの息子を見つけるとその場からすぐに連れ帰ろうとするが、誘拐された時3歳児だった息子は実の親のことを覚えておらず、育ての親であるホンチンを母ちゃんと慕っていた。おかげで連れ帰ろうとする実の親たちがまるで誘拐しているような構図になってしまっている。
DNA鑑定で血のつながりがあることが判明しても、実の親たちこそを誘拐犯だと思っているポンポンはティエンたちになかなか懐いてくれない。実の親としては辛いところだ。
ホンチンとしても誘拐されてきた子供だとは知らなかったのだから、また死んだ亭主には自分は子供を産めない体だと言われていたのだから、引き離されてしまう子への愛情も本物だろう。見ていて同情してしまうものだ。
また、ホンチンには娘(ポンポンからすると一緒に育ってきた妹)もいて、その子も実子ではなく、事件を機に施設に保護されることになると、彼女はその妹だけでも自分の手で育てようとポンポンや娘がいる深圳(農村部からすると都会)へとやって来る。
ポンポンとの絆を深めるためその妹を養子にしたい実の母親と、その娘だけでも自分で育てようと同じく養子にしたいホンチン…。我が子を思う二人の「母親の愛情」が交錯してしまうのだから、見ていても切ない。もはや両者が主役で、両方に感情移入をしてしまう。どっちが悪いなんて言えないのである。
結末と制度
物語は最後、国の制度上、両方ともに妹を養子にできる可能性がなくなると示唆するような終わり方をしている。
どっちが悪いなんて言えないのにそのような結末に至るのは、結局その制度や社会構造に問題があるということであろう。
この映画は親が子を思う至上の愛情を描きながら、同時に中国政府、ならびに中国の国民に問題提起をしている作品である。
そしてその後、子供や女性の人身売買を厳しく取り締まる法改定が政府によって実際になされ、また一人っ子政策も緩和されていったのだから、映画が世の中をも動かし得る可能性があることを教えてくれる作品でもあった。
純粋な愛情すら発揮できない国であるなら国民が政府に訴えなくてはいけないのだろう。これは中国に限った話でもない。
ちなみに私のような家猫は売られていまの主の家に住んでいる身分だから、どちらかというポンポンの立場と似ている。猫身売買だ。そんな私が言えることは、馴染んでしまうとそれが普通になる。育ての親を母ちゃんと呼ぶポンポンの気持ちはよくわかる。そのせいで二人の母親が苦しむことになっても彼のことは誰も責めれないだろうと言っておきたい。
あしからず。