映画ソムリエを目指す猫

〇〇なときに観たい映画をレビューしており候。

『火垂るの墓』 国防軍が必要だと思った時にまず観ておきたい映画

火垂るの墓

公開:1988年4月16日(日本)

上映時間:88分

監督:高畑勲

原作:野坂昭如

脚本:高畑勲

製作:原徹

音楽:間宮芳生

編集:瀬山武司

出演:辰巳努白石綾乃、志乃原良子、山口朱美、他

 

あらすじ

大東亜戦争(太平洋戦争)末期、軍人(海軍)を父に持つ14歳の清太とその妹の4歳の節子は神戸大空襲にて母親と家を失い、身を寄せた親戚の家でも邪魔者扱いされて防空壕の中で二人だけで暮らすことになる。だが、そのうち食べ物もなくなり、妹は栄養失調になってしまい…

 

目次

 

 

原作者は野坂昭如

戦争体験を語るその姿から生前左側の人間として見られることも多かった原作者の野坂昭如氏。実際に疎開を体験し、当時一歳だった妹を栄養失調で亡くしているという作中の主人公のような境遇であったらしい。ただ、清太のような妹思いではなかったという。むしろ疎ましく思っていたというのだから、清太ら兄妹を邪魔者扱いして結果的に追い出した親戚のおばちゃんとあまりかわらない。しかも、野坂氏本人は疎開先の年上の娘に熱を上げていたというのだから、かなりのギャップだ。

その妹への贖罪の意味でこの作品を書いたという。ときどきこの作品が反戦作品として見られることがあるが、その執筆背景からでは、戦争が悪いというより、自分自身が悪かったということになるだろう。もしこの作品が本当に反戦を訴えていると原作者本人も言うのであれば、それはつまり自分自身の罪を戦争のせいにしているだけだと捉えられなくもない。

 

戦時下は理不尽のカオス

妹を栄養失調で死なせてしまうという罪、そんな罪を犯してしまうくらい「戦争」というものは不幸である、だから「戦争は大罪であり反対である」というのは、上の理屈から考えると一種の責任転嫁のようでもあるが、他者からの攻撃によって自分たちの命を狙われ、食うことにも困る状況下に置かれれば大小問わず人は罪を犯し、世の中や社会が混沌とするということは間違っていないだろう。

生き残るためにはキレイごとでは済まないのである。

本アニメ映画作中でも、妹の節子が栄養失調になると兄の清太は畑で盗みを働き、捕まって警察に突き出されても、許されると今度は空襲時の火事場泥棒までやっている。果ては、米軍機による空襲を喜んでいるシーンまである。なんだろうか、見ようによっては戦争を商いとする軍事産業の会社の役員のような反応である。(軍事産業の人、申し訳ない)

昨今でも、負け組に追いやられた人間は他人の不幸を喜ぶらしい。特に勝ち組の失墜や失脚にやたらと攻撃的に反応するそうだ。

平時であってもそれだ。やらなければ実際に即自分の命にかかわる戦時下では、法律や理屈と言うものが通用しない瞬間が多々あるだろう。法律や理屈は、その瞬間の命を救えないのだから、当事者が防衛本能と生存本能に従って行動するというのも自然の流れというものだ。

 

反戦映画にならない?

世界情勢に目を向けると、一国が防衛本能や生存本能に従って行動を起こすことがある。他国にいままさに侵略されそうなら、軍を起こしてそれと戦う、つまり戦争に突入するということもその行動の一つだろう。

この日本においては憲法上、国防軍がないのだから、まずは憲法を改正してそれを持つことから始まるだろう。

この『火垂るの墓』を観ていると、まるで反戦を訴えていると捉えられがちのこの映画が、むしろ長年の平和で忘れがちだった防衛本能や生存本能を改めて思い出させてくれると思えてならない。皮肉にもそれは世界の情勢と照らして国防軍を作るという考えにも繋がっていく。

そしてこれまた興味深いことに、この作品をアニメ映画化した高畑勲監督本人もまた、「反戦映画が戦争を起こさないため、止めるためのものなら『火垂るの墓』がそうした役に立っていない」との旨を口にしている。

反戦作品にはならなかったのである。

 

世界情勢の流れから国防軍を望むなら

戦争を止めることは出来ない、ゆえに反戦映画ではない、だから無力。

そう解釈してこの作品を切り捨てるのは、それもまた違うだろう。

戦時下の混沌から、戦争が引き起こす残酷さや理不尽、心身の痛み、そして不幸は本映画を観ていて十分に伝わってくる。

戦争が一度起こると、勝つにしても負けるにしてもそれらの苦しみを誰かが味わうことになる。負ければ自分たちが味わうだろう。勝っても自分たちの手によって相手を不幸にするのだから、PTSDになるくらいの激しい罪悪感も抱くだろう。

それらを理解して、その覚悟を持ってはじめて戦争(防衛戦争含む)を起こさなければならない。

私などはむしろこの映画は、戦うために国防軍を持とうとする人こそ、戦争の怖さを知り、覚悟を持つために観るべきものではないかと思えてくる。

戦争が起こす不幸の恐怖に耐えられないなら、いわゆる反戦左翼の言うようにそもそも軍や戦力など持つべきではない。 

この怖さを受け止めてそれでも覚悟ができるという良心(優しさ)と知性と胆力があれば、少なくとも侵略戦争のような無意味な戦争を起こそうとは考えないのではないだろうか。

 

反戦映画にはならないだろうが、いかにして戦争を食い止めようかと考えるキッカケにはなっている。

争いごとなど無縁な家ネコであるこの猫の目には、そう映った。