公開:2015年5月15日(アメリカ)
上映時間:120分
監督:ジョージ・ミラー
脚本:ジョージ・ミラー、ブレンダン・マッカーシー、ニコ・ラサウリス
製作:ジョージ・ミラー、ダグ・ミッチェル、P・J・ヴォーテン
撮影:ジョン・シール
編集:マーガレット・シクセル
音楽:ジャンキーXL
出演:トム・ハーディ、シャーリーズ・セロン、ニコラス・ホルト、ヒュー・キース・バーン、ロージー・ハンティントン=ホワイトリー、ゾーイ・クラヴィッツ、ライリー・キーオ、アビー・リー・カーショウ、他
【あらすじ】
核戦争によって生活環境が汚染され、水や油を奪い合う混沌とした世界。過去に少女を救えずに荒野をさまよう元警官のマックスであったが、突然襲ってきた暴徒たちに拉致されてしまう。連れて行かれた先はイモータン・ジョーが独裁的に支配する砦であった。疾病患者のために供血され続けたマックスであったが、そんなおり、イモータンの5人のワイフが部隊長フュリオサ・ジョ・バッサの力を借りて逃亡する事件が起きる。激怒したイモータンが手勢を連れて追跡を開始すると、マックスも「血袋」として車にくくりつけられ連れて行かれるのであった…
レビュー目次
畜生道へようこそ
人間たちは毎朝時間通りに起きて、決まった場所に仕事に行って勤勉に働き、食事も分け合って特に争いらしい争いもせずに日頃から秩序だった生活をしているものだが、一度世界の環境が汚染され土地が荒廃して生活が崩壊すると、気が狂ったように好戦的になるようで、それまでの道徳や良俗もちゃぶ台を返すようにひっくり返して、まるで血なまぐさい動物のようにシンプルに本能に従って生きるようになるらしい。
もしくは肉体と共に精神も病んで搾取されるだけの家畜のようなものに成り下がるようだ。
猫の私からすれば痛快である。
本作は副題をデスロードとし、本編でもトレーラー等のでかい車による荒野の追走劇がずっと続くが、ようこそ畜生の道へ、といった所だった。
搾取する方もされる方も畜生に見えるのだ。
だが、ハイセンス
それでいて、どう見ても『北斗の拳』の世紀末のような世界の住人ばかりで、どう見ても「汚物を消毒だー!」と叫んでいたような連中が幅を利かせているのに、映画全体はハイセンスなバイオレンスビッグカーアクションバトルムービーであった。
まるで整合性がなくて何を言っているのかわからないかもしれないが、言っている私もよくわからなくなっている。
健康な男の血を搾取し、血袋として車の先端に立てた棒にくくりつけるシーンはバイオレンスだが、豊満でミルクタンクのような女たちから母乳を搾取するシーンはエロチズムでもあった。
それら暴力性も助平心も、まるで日常と受け止めてしまえるくらい、このハイセンスなバイオレンスカーアクションバトルがずっと続くのである。
そしてハイセンスゆえに、それら暴力性も助平心もそのうち芸術の一片として数えたくなる。
舞台は荒野だ。
追いかけてくるウォーボーイズと呼ばれる男たちはパンクロックに熱狂する思春期の迷子のような熱量と過激な思想を持っている。
車も吹っ飛べば人も死ぬ。
バイクが踏み潰されれば、妊婦だって胴体を轢かれて真っ二つ。
遺体の腹から赤ん坊を取り出せば、女のために死んでいく裏切り者もいる。
砂嵐にも突っ込めば、スピアを持ったウォーボーイズたちが振り子の原理で空中から襲っても来る。
火炎放射を使えば、移動中も戦闘中もずっと車上でエレキギターを弾いている奴もいる。
平時の常識などいっさい通用しない。
平和にボケすぎて感覚が鈍化した人間なら間違いなく置いてけぼりを食らう作品であろう。
希望である
そのような中でも、主人公マックスが味方することになる女たちは希望をいだいている。
「緑の地」を求めて逃亡を続けるのである。
環境破壊されたこの世界ではその希望も幻想であったとわかっても、マックスの助言により次には開き直りのように反逆の奇手に転じている。
その際マックスは、失望すると気が狂うから希望は持つなと言っているが、我が猫の目からすれば行動を止めないことが希望である。
改めていうが、この映画はときどき停車することがあっても基本的にずっと車を走らせている。
戦闘中もずっと走りっぱなしだ。
行動を止めないことが希望の定義とするなら、荒廃した世界で狂人たちが跋扈(ばっこ)している百鬼夜行のようなこの映画も、実はずっと希望に溢れていることになろう。
映画作品の解釈は人それぞれだが、本作の結末を見て「世紀末救世主伝説」という『北斗の拳』の言葉を思い出した私の中では「希望」という言葉で片付いてしまった。
また同時に、世の中の思春期の荒くれ者たちの盗んだバイクで走り出すような問題行為もまたがむしゃらに希望を求めている姿なのではないかと、この映画を観ながらふと思ってしまった。