公開:1991年11月22日(アメリカ映画)
上映時間:100分
監督:バリー・ソネンフェルド
製作:スコット・ルーディン
脚本:スコット・ルーディン、ラリー・ウィルソン
撮影:オーウェン・ロイズマン
編集:デデ・アレン、ジム・ミラー
音楽:マーク・シェイマン
出演:アンジェリカ・ヒューストン、ラウル・ジュリア、クリストファー・ロイド、クリスティーナ・リッチ、ジミー・ワークマン、ジュディス・マリナ、カレル・ストルイケン、ダナ・アイヴィ、ダン・ヘダヤ、エリザベス・ウィルソン、他
【あらすじ】
一家して不気味なことや不吉なことを好むアダムス家の家長・ゴメズは25年前に追いやってそのまま行方不明に生っている兄のフェスターの帰りをずっと待っていた。一方でこの家に事業の話を持ちかけてはゴメズにあしらわれていた顧問弁護士のタリーは、自身が借金をしているアビゲイル女史の息子・ゴードンがフェスターにそっくりであることから、彼にフェスターを演じさせてアダムス家へ潜入させ、その財産を盗み出す計画をして実行する。噛み合わない言動からフェスターがホンモノではないと一家の者たちに疑われるが…
レビュー目次
ナンセンスでハイセンス
偽物のフェスターではないかと疑われながらもアダムス家のセンスに馴染んで気がつけば子どもたちや弟夫婦たちと過ごすことに楽しくなっているゴードン。それもそのはずでアビゲイルの息子のゴードンは実はフェスターそのもの、25年前にバミューダ沖で記憶喪失のまま発見されたのを女史が引き取って養子にしたのである。
物語としてはネタがバレてしまったが、本作は別に物語に感動を求められていないので問題ない。ホラーコメディと称されるように本編は喜劇であり、作中の節々に垣間見るアダムス家らしいゴシックで奇天烈なセンスに笑って心動かされれば、作品としても面目躍如というところである。
それくらい画面からあふれるアンチキリストにも似たナンセンスなハイセンスに強い衝撃を受けてしまう。
私が幼い頃に映画の面白さに目覚めたのも何を隠そうこの『アダムス・ファミリー』であった。
まあ何せ、世の中の常識となっている倫理観だとか道徳観だとかと逆のものを好んでそれが一家の倫理観であり道徳観であると真面目に思っている連中だ。作中の弁護士の言葉を借りれば「連中はアホ」だ。
痛めつけることも痛めつけられることも喜ぶ夫婦、魔女の祖母、執事はフランケンシュタイン、子どもたちは処刑遊びに興じて、人情味のある「手」(片手&手首まで)がペットというから、聖人からすれば一家揃って精神異常者のようなものである。それでいてこのように価値観が世間常識から180°ズレていても家族や友人への愛情だけは世間一般、いや一般以上にあるのだからまったく憎めない。不気味なはずなのに子どもたちやハンド君にいたってはかわいく見えてくる。
変人であることに勇気を貰える
人間ではない猫の私などは人間の価値観や常識からもともと外れた身の上であるから、この一家に共感を覚えてならない。
これは我が猫の目が日頃人間観察して得た一つの推論であるが、一般常識から離れた本性や趣味を隠し持っている人間なんてそう少なくないであろう。そういう手合がこの作品を観ても、私のようにシンパシーを感じるのではないかと思われる。
彼らアダムス家のような不気味なセンスを持った者たちよりも、世の中には常識人面をした極悪人というものがいるものだ。劇中のアビゲイル女史や顧問弁護士のように金の亡者や詐欺師という人種のほうが時に罪である。そして劇中、みごとに滑稽で醜い。
これに比べるとアダムス家の連中はただ変人なだけであって高貴である。ゴシック的な美がある。
彼ら一家を見ていると、一般常識から外れた変人、人間以外のものとして生きていることに勇気をもらえる。
もっといえば、この映画を観て新しいセンスを享受することなく、一般常識に拘泥してナンセンスだと打ち捨てられる者がいたなら、私などはその人物の人間味や愛というものをかえって疑ってしまうだろう。そんな者はつまらない人間である。一般常識なるものが毎日続くと退屈であるように、つまらない。
変人=アーティスト
ちなみに私が特に好きなシーンは、パーティでゴメズとフェスターがコサックを踊っている時の妻のモーティシアはじめ一族の者たちによる息の合ったタンバリンと、もう一つ、学芸会で子どもたち(ウェンズデーとパグズリー)が見せた日本の侍映画にも負けない血しぶき決闘劇だ。
どちらもCOOLである。
とはいえ、特に二つ目に関して誤解されそうなので断っておくが、私自身、血を見るのが好きだと言う訳ではない。スプラッター映画の類は基本的に得意ではない。ホラーのようなものをコメディとして、または一つの美的アートとして描くセンスに惹かれているだけである。
「変人だっていいじゃない、アーティストだもの」
そんな声がこの映画全体から聞こえてくるのである。
裏を返すと、自身で変人であると自覚したとき、その時点でその者はすでにアーティストであると、言い換えられそうでもある。
この作品はいろいろと勇気を与えてくれる訳である。