公開:2005年5月14日(日本での公開)(米国映画)
上映時間:114分
監督:エリック・ブレス
製作:クリス・ベンダー、A・J・ディックス、アンソニー・ルーレン、J・C・スピンク
脚本:エリック・ブレス、J・マッキー・グラバー
撮影:マシュー・F・レオネッティ
編集:ピーター・アマンドソン
音楽:マイケル・サビー
出演:アシュトン・カッチャー、エイミー・スマート、ウィリアム・リー・スコット、エルデン・ヘンソン、メローラ・ウォルターズ、エリック・ストルツ、他
【あらすじ】
一時的な記憶喪失の治療のために精神科医のすすめによって子供の頃から書いていた日記。それを読むことで過去に戻れる(タイムリープ)能力があると気づく大学生のエヴァン。7歳のときに友人「トミー」とその妹「ケイリー」の父親にケイリー共々性的虐待を受けた過去、13歳の時に彼ら3人にさらに友人「レニー」を加えた4人でダイナマイトで遊んで近所の若い母親とその赤ちゃんを死なせてしまった過去、さらにトミーがキレてエヴァンの犬を生きたまま焼き殺そうとした過去、これらへ戻ることで未来を変え、エヴァンは自殺してしまったケイリーを救おうとするのだが…
レビュー目次
過去に戻る力とその影響
過去に戻れる能力に気付いた主人公が、その力を使って未来を変え、愛する者たちの不幸な現在を救おうとする、いわゆるタイムリープの物語である。
日頃、家の中でゴロゴロと退屈ばかりを追いかけて、未来こそどうにか変わってほしいものだと思う猫の私からすれば、過去に戻りたいという願望は新鮮であった。
それにしても浮世は万事上手く思いどおりに運ばないようで、誰かの不幸を消してやったと思えば、また誰かが不幸になっているということが劇中何度も繰り返される。
こういう一つの小さな変化が別の場所で大きな変化を起こしているということを「バタフライ効果(エフェクト)」と言うそうだ。
蝶の羽ばたきが別の場所で台風となるとかいう話だが、蝶を見つけては腕を振り上げて爪と肉球で捕らえてくれようとする我々猫の影響力というものは、遠い何処かで、それこそ宇宙の果で天変地異でも引き起こしているのであろうかと思うところである。
登場人物たちの人格のすごい変化
このように未来を変えても結局うまく行かないものだから、主人公はそのたびにタイムリープを繰り返して、そのたびに未来が全く別物になっている。
幸せそうに過ごしていると思えば、ダメ人間になっていたり、またその逆であったりと登場人物たちの人格が180度近く変化しているのだから、演じる役者たちもやり甲斐があろう。
観ている側からすれば、そのキャラクターの清純を清純として見ていたいと思いながらその期待をあっさり裏切られ、それを挽回できたと思ったらまた裏切られといったようなものなので、精神的に随分と疲れる話である。
途中から感情移入を捨てようかと思ったくらいであるから、これはこれでまたある意味新鮮でもあった。
地獄めぐりだろうか?
それにしても基点となる主人公たちの7歳、13歳での記憶(出来事)がよくよく考えると、いや考えなくても成長過程の子どもたちには陰鬱なもので、社会的にも拙い話だ。
これくらい重いエピソードでなければ、タイムリープの物語は物語として成り立たないと言われているかのようでもある。
過去を変えた末の未来の変化も、主人公の刑務所行きであったり、五体不満足であったり、どれも不幸の極地と思えるものばかりで、火あぶりやら血の池やらの地獄めぐりをしているように見えてきた。
どんな過ちを犯せばこんな罰を与えられるのかと主人公の身の上にそのうち同情する始末である。
そして、友人、家族たち誰も不幸にならない最後の「過去の書き換え」がアレなのだから、ケイリーとの出会いそのものが罪であったと、解釈したくなるところである。
誰も不幸にならなかったが、主人公本人の心だけは不幸であり、それを承知した上での彼の行動には自己犠牲の薫香も醸している。
これを美的なドラマであると納得できれば、随分と主人公に感情移入が出来ている証であろう。
この感情移入を持ってすれば、主人公が愛したケイリーとの出会いこそが悪いとは到底思えないもので、彼が、あのような神にも近い能力を手に入れてしまったことこそが罪であったと、そう願いたいところである。
過去に戻って人生をやり直したいと思ったときに
この映画を視聴することで何を教訓とするかは人それぞれ異なると思われるが、過去にこだわりのないある意味未来志向である猫の私などは、過去を変えたいと思ったところでロクな事は起きないと改めて心得た。
地道にのんびり「今」を過ごすことを享受していたいものだ。
よって、そんな猫の私からこの映画を薦めるとすれば、「過去に戻って人生をやり直したい」と思ったときに観たい映画であると、こうなるだろう。
過去に戻ってやり直しても決して良くないと言っておいて、それでは矛盾するではないかとの指摘もあろうが、これはいわゆる逆療法の荒療治であると思っていただければ幸いである。