『ミラクル7号』
公開:2008年6月28日(日本での公開)(香港)
上映時間:88分
撮影:プーン・ハンサン
編集:アンジー・ラム
音楽:レイモンド・ウォン
出演:チャウ・シンチー、シュー・チャオ、キティ・チャン、ラム・ジーチョン、リー・ションチン、ホアン・レイ、ハン・ヨンホア、ヤオ・ウェンシュエ、他
【あらすじ】
建設現場で働きビンボーしながらでも一人息子のディッキーを私立の学校に通わす父親のティー。しかしボロボロになった靴も買い換えられない極貧ぶりのせいでディッキーは同級生たちにバカにされていた。流行りのオモチャ(犬型のロボット)も買ってもらえずディッキーがスネる中、ゴミ捨て場にてお古の靴を探していたティーは緑色のボール型のオモチャ(?)を拾う。そのボールから出てきた生命体(おもちゃ?)にディッキーは「ミラクル7号」と名付けるのであった…
レビュー目次
「ビンボーでも清い心で」という教えを皮肉る
ビンボーしていても清い心を持って生きて入れば必ず報われる。
ビンボーをしていても人間として恥のない生き方をしていれば人から尊敬される…云々。
などという哲学は昔からよく言われていることで、それを題材にした物語も古今東西、往古来今、誕生しているが、この『ミラクル7号』もまたその手の物語であることに間違いない。
設定からしてビンボー、その表現もやり過ぎに思えるほどである。
例えば今どき靴も買えない。ボロボロになってまで履き続け、穴が開けば父親が、誰か捨てていないかと代わりをゴミ捨て場へ探しに行っている。
また、家も古く、極貧の象徴とでもいうのであろうか、ゴキブリが何匹も出てくる。子供も手慣れたものだから手でバンバンと、まるでゲームのように退治していき、父親にしても足の裏を使って器用に叩き落としている。
そんな中流階級の一般庶民ならドン引きしてしまうようなシーンが親子の団欒のように描かれているのだから、全体ひねくれている。ひとえにチャウ・シンチー監督らしい。
ビンボーしていても清い心で云々といった啓蒙にしても、息子・ディッキーは物語の始まりから学校内で実践しているのに、周りのイジワルな同級生たちが憎たらしいくらいに否定してくれている。
人間の子供は無邪気という言葉もあるが、その同級生たちのああいう姿を見ていると、日頃性悪説を支持している私の了見が正しかったと思えてしまう。
そしてその同級生たちの描き方もシンチー監督らしくやりすぎで、子供ながらにしてギャングのボスのような素振りを見せる子がいるかと思えば、その子にペロペロキャンディで雇われているジャイアンのような暴れん坊、しかもありえないくらいパワフルな子も登場する。
そうかと思えば、そのジャイアンのような子をも倒してしまう、明らかに小学生には見えない大きな「女の子」も登場する。
人間並に人間の文化を嗜む猫の私は、むかし読んだ漫画『浦安鉄筋家族』に登場する「グレート・ジャンボ・ゴリラ」を、その女の子を見て思い出してしまった。
かわいいようで奇天烈、そしてオマージュ
父親がゴミ捨て場にて拾ってきた丸い緑色のボールの中から、「ミラクル7号」と名付けられる生命体(または宇宙からのハイテクおもちゃ)が登場する。
その顔はふわふわした毛の生えた白い小動物のようでありながら、体は緑色でゴムのような質感をしている。我々猫のような四本足の動物のようでいて、二足歩行の人間のようなアクションを見せることもある。頭に尻尾のようなものが生えていて、その丸くなった先端が光ることもある。
表情も豊かで、我々猫からすれば人に媚びたようなかわいらしさがあるが、冷静に見た目を分析するとわかるように奇天烈な生き物である。いや、生き物であるのかオモチャであるのかも定かではない。
そんな「ミラクル7号」はいったいどんなスゴい奴なのかと言えば、たいしてスゴいやつでもない。
ディッキーの妄想の中では、それはもうテストで100点を取らせてくれるは、体育で人知を超えた活躍をさせてくれるはで神がかっているが、妄想はあくまで妄想で現実はそう甘くないことをここでも示してくれているのである。
その妄想のシーンだが、どう考えても日本の漫画の大御所「ドラえもん」をオマージュしているように思えてならない。
日本の漫画大好きなチャウ・シンチー監督らしさがここでもうかがえるのであった。
ズルいが感動へ
役に立たない「ミラクル7号」であるが、一つだけものを直すという能力がある。しかも自身の生体エネルギーを著しく使用するのか、その能力を使うとぐったりとしてしまう命がけの能力だ。
その能力によって、後半には事故で死亡してしまう父親ティーを助けている。
あれだけ貧乏をフザケたように描いていた同作品が、最後には感涙を誘おうというのである。
力を振り絞って助けているときの「ミラクル7号」は、我が猫の目には嫉妬してしまうくらい同情を誘う表情を拵えている。
さらには父親の死を告げられたときの息子ディッキーの泣きの芝居には、ドキュメント映画を見ているような現実味を感じさせてくれた。
それまで味噌っかすな演技をしていた少年が、大根役者にもなれないような幼稚な芝居をしていた彼が、その「泣き」だけで作中のすべての役者の演技を凌駕しているのである。
なるほど、主人公役に抜擢されたのも首肯できる。そして、馬鹿らしさと感動のギャップの深さに、改めてずるいと思うのであった。
軽く暗黒面に落ちそうなときに
改めて記すが、この映画はビンボーをしていても清い心で正しく生きることを諭してくれている。
心が軽く暗黒面に落ちそうなときに視聴すれば、救いの手を差し伸べて暗黒世界の門の手前で引き止めてくれるような映画であろう。
ただし、あくまで「軽く」落ちそうであるということが条件で、深刻なほど暗黒面に落ちている時は、その全体的にフザケた描写からさらに暗黒の深淵に突き落としてしまう可能性もあるので、くれぐれも気をつけていただきたい。
できれば、チャウ・シンチー監督の冗談のセンスを理解した上で視聴していただきたいものである。
シンチー監督に興味がある猫としては、重症なダークサイダーをもその笑いのセンスで救出したという事例が聞こえてくることを祈るばかりであるが… 聞こえてきそうにもないという確信めいたものも、我が心にはありますな…
あしからず。